料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第107回(2024.5.6)

終戦直後の栄ミナミと納屋橋周辺

第二次世界大戦終戦をむかえた翌月1945年9月26日米軍第25師団副司令官E.ブラウン准将と20名ほどの先遣隊が京都からジープに乗りつけて名古屋観光ホテルに到着。翌日、160名以上の米軍部隊が大成小学校(現・丸の内小学校)に進駐してきました。観光ホテルを強制収容したGHQは前進司令部を設置し、後続の2万人とも言われる部隊の名古屋港に上陸するのに備えました。

その後、モージャー氏が、GHQの文民スタッフ(civilian secretarial staff)として1946年4月から1947年1月に日本に滞在した際、東京、名古屋、広島等の全国各地で撮影した街頭風景や建築物のカラー写真304枚が国立国会図書館デジタルコレクションとして、2017年公開されました。

78年の時を経て2023年2月3日名古屋市立大学院人間文化研究科・佐藤美弥ゼミの学生たちが料亭蔦茂の小生を訪ねて栄近辺の写真説明してほしいと面談、本年1月に研究ノート「デジタル化資料を用いた戦後期 名古屋地域史研究の試み」深田正雄オーラルヒストリーとして発表されました。

素晴らしい考察に感銘して、佐藤准教授のご了解のもとここにリポート抜粋・転載して終戦直後の栄地区を紹介していきたいと思います。

栄・南大津通界隈

深田正雄氏へのインタビュー調査、文献調査に基づき、写真には何が写っているのか、写真170、写真182に名古屋市中区栄の広小路通南側の大津通周辺の当時の様子を検討する。また、補足資料として写真125と写真161も用いる。

写真170「街並み(愛知県庁名古屋市役所遠景鳥瞰)」は大津通を南方から撮影したものである。撮影地点は『居住者全図』を参照すると南大津町2丁目4番地に所在する「福寿生命」の屋上であると考えられる。近年の雑誌『中部財界』の記事 によれば、現在の大津通電気ビルは、中部配電・中部電力が1942(昭和17)年に福寿生命の本社社屋を譲り受けて使用した。

後に、その土地に新築したものである。つまり、モージャーが写真を撮影した当時はこのビルは中部配電・中部電力のビルだったと考えられる。

画面奥には愛知県庁舎と名古屋市役所庁舎(①)の特徴的な屋根が写っており、どちらの壁面も黒色の塗装が施されている。これは戦時中に米軍の空襲の被害を少なくすることを意図した防空迷彩である。大津通りには市電が運行しており、人々の足として利用されていたことがわかる。


デジタルコレクション #170
写真170「街並み(愛知県庁名古屋市役所遠景鳥瞰)」国立国会図書館所蔵
①愛知県庁舎・名古屋市役所庁舎 ②小島電気商会 ③共済ビル ④千代田生命ビル
⑤日本銀行名古屋支店 ⑥伊藤銀行中支店 ⑦「五金」の看板 ⑧ヨロヅヤ

次に大津通両側の建築を『居住者全図』により検討する。まず東側を見る。

手前の赤レンガの外観の建築から小島電気商会(②)、共済ビル(③)、千代田生命ビル(④)、広小路通を挟んで北側に再び赤レンガの外観の日本銀行名古屋支店(⑤)がある。

通りの西側は、画角の問題で東側より見える建築が少ないが、写真中央の巨大な白いビルが伊藤銀行中支店(⑥)である。この銀行は名古屋で初めての私立銀行であり、1941年に愛知・名古屋両銀行と合併し、東海銀行となり、現在は三菱東京UFJ銀行となっている。伊藤銀行中支店の南側には建設中の木造建築物があり、そこには「五金」と記された看板(⑦)が設置されている。

この「五金」の建築は別の写真にも写っている。以下では、この「五金」について検討する。


デジタルコレクション #182
写真182「街並み(丸栄名古屋公証人合同役場五金等鳥瞰)」国立国会図書館所蔵
①名古屋株式取引所 ②丸栄百貨店 ③五金

写真182「街並み(丸栄名古屋公証人合同役場五金等鳥瞰)」は名古屋株式取引所(現在の名古屋証券取引所)(①)を中央に写したものである。現在の名古屋証券取引所の位置と、右下に写る「五金」(②)の位置から考えると、この写真も写真170と同じ地点から撮影したものと考えられる。株式取引所の北側には建設中の丸栄百貨店(③)が見える。丸栄百貨店は2018(平成30)年6月に閉業したが、2022(令和4)年3月から商業施設マルエイガレリアが開業している。

1953年当時の地図によれば「五金」とは「洋装百貨店」であるという。営業内容として「ビューティサロン」「食堂女雅美」「理髪」「パーマ」と羅列されており時代を感じさせる。写真125「街頭風景(飲食雑貨店「五金」前)」の写真には五金の開店を知らせる看板が大きく写っている。


デジタルコレクション #170

写真170が撮影された時点では建築中であった五金が完成しているのである。看板には「高級食堂・特撰雑貨の店」と書いてある。つまり、1946年以降1953年時点でも同様の飲食店と服飾関係の営業を継続していることがわかる。

現代の感覚では、百貨店と聞くと松坂屋や三越、同じ写真に写っている丸栄百貨店など、大きなビルを想像してしまうが、戦後期には五金のような小さな店舗も百貨店と呼ばれていた。過去と現在の意識の違いが感じられ非常に興味深い。


デジタルコレクション #161

ところで、写真170番の写真に小さく「ヨロヅヤ」(⑧)という看板が見える。この店舗を至近距離で撮影したものが写真161「日用品店「オカヤ商店」」である。看板には「家庭日用百貨」「オカヤ商店」という文字が見える。

名古屋で「オカヤ」と聞くと岡谷鋼機を想起するが、深田氏は「岡谷はこういう名前使わないで漢字で書くか笹屋っていう」と述べ、岡谷鋼機との関係はないだろうとした。この写真に写る荒物屋は個人商店だったものと考えられる。

納屋橋から名古屋駅を望む


デジタルコレクション #87

また占領期の名古屋駅周辺の様子について明らかにしようとした。

写真87は広小路通南側にある朝日ビルの塔屋から西方、堀川以西名古屋駅周辺を撮影したものと推定できる。

画面中央の大きな白いビルが名古屋駅(①)であり、左側の幅の広い通りは現在の曲がり具合と一致しているため広小路通であることがわかる。また、広小路通には市電(路面電車)が走っており、新旧の地形図を比較できるサービスである「今昔マップ」 を参照すると、現在の東山公園辺りから笹島までを東西に結ぶ路線であることがわかる。

画面左の交差点は柳橋交差点(②)である。広小路通を走る路線とクロスする路線は、名古屋城北西の現在の浄心駅付近から南進し、現在の日比野駅付近を経由し、築地口など名古屋港方面を結ぶ、名古屋駅の東を南北に走る路線である。

画面左側の広小路通南側の街並みについては、『居住者全図』や深田氏へのインタビュー調査から特定できたことが複数あった。柳橋交差点から西に少し進んだ地点にある、周辺より大きく、壁面が黒色に塗装された建築は1933(昭和8)年時点では三井物産のビル(③)であることがわかる。モージャーが撮影した時点でもそのまま三井物産であったと考えられる。現在は、この場所には「三井物産名古屋ビル」がある。

画面左手前の多角形の塔を有する建築(④)の窓の右の4文字を見ると、はっきりと判読することができないが、「○○銀行」と書かれている。『居住者全図』を参照すると、堀川と柳橋交差点の間に「明治銀行西支店」がある。しかし、明治銀行は1938年に廃業している 。改めて建築壁面の4文字をみると「静岡銀行」と書かれているようにも思われる。1966年には同地点に静岡銀行名古屋支店があるが、1946年時点で静岡銀行が営業していたかどうか、今回は明らかにできなかった。また、この建築と柳橋交差点の間に黒色の屋根で間口の広い石原商店(⑤)がみえる。

画面中央から右側にかけての広小路通北側の地域については、『居住者全図』では個人の住宅や倉庫が多く、堀川沿いには水産市場も存在している。しかし、写真が撮影された1946年時点でも同様であったのか、写真からは広小路通以北の具体的な建築を特定することはできなかった。

堀川沿い・・・天王橋から納屋橋


デジタルコレクション #122

本項では、深田氏へのインタビュー調査に基づき、資料撮影当時の名古屋駅周辺のようすについて述べる。深田氏によると、当時の市電、とくに今池から栄や納屋橋の間は多くの人で賑わっていたが、堀川以西はそこまでの賑わいはなかったそうである。当時住吉町(現栄3丁目)に住む小学生だった深田氏にとっては、堀川より西はほとんど足を伸ばすことのない怖い場所であったという。具体的には、堀川の納屋橋より南側には、夕方になると多くの売春婦が集まっていたというような記憶を伺った。

写真122「街並み(鳥瞰)」は、写真87と同じ地点から南方を撮影したもので、納屋橋以南の堀川が撮影されている。広小路通と三蔵通(納屋橋の南の通り)の間には、江戸時代には尾張藩の蔵があり、のちに牢獄、倉庫と変遷した。深田氏によれば、その跡地には自動車学校や「名古屋温泉パレス」がつくられたという。名古屋温泉パレスは、夏はプール、冬はスケート場になった。2階は1000人ほどが集まるダンスホールであり、日本人だけでなくアメリカ人も交じってキャバレーが営業されていたそうである。

現在はテラッセ納屋橋、Colors366、コートヤードホテル、そして、川べりの船着き場も整備され新しい市民の憩いの場となってきました。

出典:名古屋市立大学院人間文化研究科 人間文化研究 第41号 2024年1月
〔研究ノート〕デジタル化資料を用いた戦後期名古屋地域史研究の試み
―国立国会図書館所蔵モージャー氏撮影写真資料による―
A Study for Local History of Postwar Nagoya Using Digital Materials:
Based on Photographic Materials Taken by Robert V. Mosier
佐藤美弥・須山瑞月・森村水咲