料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第49回(2015.4.23)

矢場町通&東陽通りは山田才吉ストリート

若宮八幡社の北筋は地図では矢場町通と表記されていますが、地元では「東陽通り」と呼ばれています。

夫馬商店 名古屋登録地域建造物資産第21号に認定
写真:1 夫馬商店 名古屋登録地域建造物資産第21号に認定

戦災で焼け残った家屋もあり、戦後の都市復興計画でも道路拡幅が不十分で電線の地中化が困難であるということで今でも電柱が林立しています。政秀寺・白林禅寺の貸地でもあり、木造建築の残る昭和ロマンを感じられる通りと言えます。

なかでも名古屋登録地域建造物資産第21号に認定された夫馬商店は、明治期の建造で現在も住居として使用されています(写真1)。

昭和34年住宅地図からも若宮北、大野理髪店、和光堂時計店、若原裁縫具、朝倉鍼灸、つばめ理髪店がプリンセス大通り西に、東にはレコード楽器・明治屋、(株)玉竹染工、丸栄家政婦紹介所、向側の政秀寺底地所有の山田板金、ユニフォーム深尾商会、水谷さん、宮田肉店がそのまま現存しています。

政秀寺北:宮田精肉店、深尾商会 そして、栄ミナミでは珍しい電柱群
写真:2 政秀寺北:宮田精肉店、深尾商会 そして、栄ミナミでは珍しい電柱群

昔の商店街の面影を残し、ほとんどが2階に住居があり、店主さんか社員さんがお住まいの職住一体となっています(写真2)。
そして、勝鬘寺は1632年(寛永9年)に創建され、本堂、山門、太鼓楼の3棟は名古屋市有形文化財に指定されています。

終戦直後に建設された木造2階建て・六軒長屋ソエダアパートメントだけでなく、玉竹染物さんでは今でも井戸の水による繊維染色整理が行われ、白林寺さん南にはトタン塀に囲まれた畑・菜園があり、栄中心とは思えない光景です(写真3)。

矢場町通り東側:ソエダアパートメントなど商店街の面影が?
写真:3 矢場町通り東側:ソエダアパートメントなど商店街の面影が?

南東角の足立運動具店では中学生の頃、スキー登山用具を問屋価格割引で仲間と買い求めた思い出もあります。

そして、この地の話題のお店は「店員は無愛想だがカメラは安い!」のCMで知られた(株)アサヒドーカメラです。ビデオカメラやパソコンも取り扱うようになり、南大津通りのテナント店舗は1F13坪という狭さ。それでも店員1人あたり・単位面積あたりの売上高日本一の店舗でした。
しかし、平成2年頃には手狭な店舗では商品管理ができず、勝鬘寺トタン葺車庫や建設協会の会議室などで受け渡しがなされるなど、東陽通りの賑わい雑踏名物といえました。
平成11年には花長ビルに移転。ビル内に音楽スタジオ「スタジオアサヒドー」をオープンする他、中古カメラの通販事業も展開されています。
社長の後藤寿美さんは栄ミナミ地域活性化協議会のメンバーとしても活躍、そしてFM愛知の番組「大人の栄ミナミde猫まねき」でパーソナリティもしています。「ニシニヨイパパ・・・、今金中夕、ミカとパパの物語」など、宣伝コピーは懐かしい街の文化史です。

東陽町1丁目から11丁目
写真:4 東陽町1丁目から11丁目:北見さんの大正時代地図より

この地区は、東陽通り商店街の起点として若宮八幡社から4-5丁目の東陽館への「山田才吉ストリート」といえます。東陽町は大津通りから中央線まで11丁と最も長い商店街でもありました(写真4・大正期の東陽町1-11丁目)。

パルコ連絡通路から東陽町商店街を望む
写真:5 春姫道中・大津通り歩行者天国でのパレード:平成27年4月19日
パルコ連絡通路から東陽町商店街を望む

大津通り東・東陽町1丁目ではパルコ建設にあたり桃源亭、岡本造花店は共同地権者として館内に、岩田結納店は同館南に移転しました。パルコ南館との連絡通路が空中に出現しております(写真5・ホコテン春姫道中と東陽町パルコ)。
辰巳屋旗店と家具・伊東屋はビルに、そして生菓子・六十一石さんの大福餅は子供のころからの好物で、いまでも東陽町の饅頭屋の面影を感じさせてくれます。

新栄1丁目にある、お茶の東陽園さんは、東陽町8丁目付近で昭和10年に創業されています。
そして、栄ラシック建設で移転した成田山萬福院さまが東陽館に代わる名所、新しい門前型商店街として、今後発展されることを楽しみにしております。

今回は、昭和35年の北見さん作成住宅地図(写真6)と郷土史家の沢井鈴一さんの山田才吉翁と東陽町変遷のエッセイを引用させていただきます。

沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町・東陽通り」

山田才吉という希代のアイディアマンがいた。名古屋名物の守口漬は、彼の考案によるものだ。才吉は宏壮建造物を建てるのが好きであった。彼が建造した東陽館、南陽館の名前をとり、宏壮建築に通ずる道は東陽通り、南陽通りと呼ばれた。俗名は、いつしか正式の呼称となる。東陽町、南陽町という町名も、東陽館、南陽館がその地にあったから付けられた名前だ。明治十四年、若宮神社の西隣りの地で、彼は考案した守口漬の店を構える。守口漬は飛ぶようにして売れてゆく。漬物の販売で巨利を得た彼は、その資金を元手に港区東築地に五万坪の土地を購入し、明治十七年、愛知県で最初の缶詰製造工場を造る。 缶詰製造は、思いもかけない形で彼に幸運をもたらした。明治二十七年、日清戦争が勃発する。陸軍は外地での保存食として、缶詰を使用することを決め、才吉に発注する。才吉は、東京・大阪に支店、工場を新設し、陸軍に納める牛肉缶詰を製造した。

東陽館(鶴舞図書館蔵)
東陽館(鶴舞図書館蔵)

三十七年に起った日露戦争は、さらに莫大な利益を彼にもたらした。才吉は缶詰製造で得た資金で、明治二十九年、丸田町の交差点付近の広大な地に東陽館を建設する。東陽館は広大な地の中に、豪壮な本館がそびえていた。間口は百間、奥行は約七十間、二階建てで屋根はヒハダぶきであった。 二階の大広間は舞台付きで三百九十六畳あった。階下は二十室あった。 庭には、山あり、池あり、そのなかに幾つかの亭が建っていた。池では舟遊びを楽しむことができた。人々は東陽館を人工の楽園と称した。

現在各地で造られている巨大娯楽施設を、すでに才吉は、明治の時代に造っていたのだ。 明治三十六年八月十三日、東陽館は炎上する。この大火は旭遊郭の火事とともに、明治の二大大火に数えられている。 火事の後も、才吉は東陽館の営業を続けるが、すでに昔日の面影はなく、大正の末に営業を中止することになる。東陽館の名をとって付けられた東陽町が誕生したのは明治二十六年だ。矢場町から丸田町、老松へと東陽館に通じる道路が開けた。この道路を中心として、田は宅地へと変わってゆく。東陽町が誕生した明治二十六年の戸数は六十戸。明治四十四年には四千余戸へとまたたくうちに戸数はふえていった。

大正年間、東陽館を失った東陽町は、商店街として生まれかわる。東陽館の焼け跡近くに東陽公設市場が建てられた。市場には、買物客がいつもあふれていた。人が集まる通りは店ができる。一軒、二軒と店ができ始め、いつしか通りの両側は商店で埋まってしまった。 戦前には市内五大商店街の一つに数えられるほどの賑わいであった。

沢井 鈴一(さわい すずいち):1940年 愛知県春日井市生まれ。明治大学文学部卒業後、市邨学園高等学校で国語科を教え、2000年3月に定年退職。名古屋市中区、北区等の生涯学習センター講師を務めるかたわら、堀川文化探索隊代表として長年にわたり堀川文化の地を調査・探索し数多の企画展を実現。

北見地図・矢場町&東陽町1-2丁目 昭和34-5年住宅図より
写真:6 北見地図・矢場町&東陽町1-2丁目 昭和34-5年住宅図より