料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第66回(2016.9.23)

白川公園遺跡、寺町、白川小学校そしてアメリカ村・・・花屋町筋

宝暦12年(1762年)名護屋路見大図 東西の花屋町筋と寺町
地図:宝暦12年(1762年)名護屋路見大図 東西の花屋町筋と寺町
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「名古屋の旧町名を復活させる会代表」北見昌朗氏の配布している宝暦12年(1762年)名護屋路見大図を見ていると、花屋町筋は伏見通りから伊勢町通りまでのいたって細い路。(左地図参照)

住吉から西は紫川沿いに、南側には光明寺や大林寺など寺院が連なり、きっと墓参も多く川の清水を利用した花屋さんが多かったのではないかと、祖父良矩は正雄に語っていました。

紫川沿いは、農耕定住前・縄文時代の古代人が居住した栗林と河川に恵まれた土地です。2008年、県内で最大規模の縄文時代の貯蔵穴群がある白川公園遺跡で、縄をねじったような彫刻が施してある縄文時代晩期(約2500年前)の彫刻石皿(縦約40cm×横約30cmの楕円形)が出土したと、名古屋市教育委員会が発表しました。

当時は科学館新設工事中で、遺跡発掘調査の仮囲いができ、建設が大幅に遅れたことが思い出されます。世界一といわれるプラネタリウムが2011年3月に完成、しかし開館日の前週11日に東北大震災が発生! 日本中での放射能漏れを心配して、ドイツから派遣された技師団が急遽帰国し映写機が作動できなくなり、オープンが1ヵ月延期されたエピソードがありました。

この肥沃な果樹が茂る地域には、清州越しによって、紫川の北は中級武士の屋敷、南は大林寺・光明寺を中心とする寺町が大須や橘町まで続きました。実は、第二次大戦前の名古屋市街化計画ではこの地区の寺の多くを廃寺とし、一部を郊外に移転する大規模な都市公園造営予定があったようです。

写真1:白川尋常小学校・名古屋中区80年史より
白川尋常小学校・名古屋中区80年史より

浄土宗西山禅林寺派西光院に明治5年「第13義校」が開校、その後、本校が明治18年に落成となります。明治20年、教育令改により「尋常小学白川学校」となり、次いで明治26年に「白川尋常小学校」と改正されています。

同寺のHPから、寺の変遷を引用して紹介させていただきます。

慶長九年(西1604年)第6世快空教然昇任代、清洲越し寺院の先駆として石切町(南寺町、白川町に移転寺し山内に塔頭宝珠院 清峯院 仙松院 法応寺などの末寺が瓦をならべ本町筋東に向かって織田信長寄進と伝えられる「赤門」が再建され五千坪有余の堂々たる輪奐の寺でありました。

創寺以来480年歴代住職職譜の如く「大和尚」師資相承によって法燈が亨け継がれ徳川藩政の間には住職乗興の「お駕籠」が許され駕籠付け玄関と共に格式寺として尾張役寺の首座にありました。

次いで明治、大正、昭和の時代変遷にも伝統を失わず「城南西光院」「赤門寺」として面目を保っておりましたが昭和18年(西1943年)第24世俊空實英上人代、太平洋戦争の為清洲越し以来300年に亘る白川町の地を離れ現在地、八事山手通りに再び転寺するの止む無きに至りました。本堂、庫裏総建坪数300有余の大伽藍の移築は大変困難を極めたといわれています。

白川公園石碑:白川小学校ありき
白川公園石碑:白川小学校ありき
石碑裏の銘文
石碑の裏の銘文

白川尋常小学校には江戸川乱歩が明治34年入学、明治40年には児童数808名となり手狭になったようで、大正2年には西光寺より200m程北方の「横三蔵町」に新校舎が立てられました。同校は、三十余年間にわたる立派な伝統を残し、昭和20年の空襲で歴史を閉じました。この校名を後世に伝える石碑が公園にあります。昭和54年に白川小学校昭和3年卒業生有志一同によって、市内で「白川」の名を残す白川公園を学校創立の場所とし、学校卒業50周年の記念事業として国際児童年の年に設置したと記されています。

その後、白川国民学校となり、戦災で焼失した南久屋国民学校とともに移転。一部戦災を免れた中ノ町国民学校敷地に3校が一緒となり、昭和22年に栄小学校と改称されました。

大戦後、計画途中の大規模公園予定地が北側の商業地とともに米軍に供出され、昭和33年まで通称「アメリカ村」(高級将校の家族住宅)として接収されていました。撤退後の跡地は侵入禁止のロープはあったものの出入りは自由で、防空壕も残り、寺の墓地では土葬であったので人骨が散乱、小学生の度胸試しに頭蓋骨を掘り出しては悪ふざけをした記憶があります。

公園よりウィンコートを望む・右はプラウド栄白川公園(平成17年築)
公園よりウィンコートを望む・右はプラウド栄白川公園(平成17年築)

その後、白川公園は黒川紀章氏が設計する名古屋市美術館、「みて、ふれて、たしかめて」がモットーの名古屋科学館・プラネタリウム、噴水の『虹の舞・白川』など多くの芸術作品にあふれた市民の憩いの場として親しまれています。一時はホームレスの居住地として騒がれましたが、デザイン博開催時に市当局と地元の尽力で排除されました。南桑名町から移転した料亭八勝館中店が公園北に料亭を移築、中華料理九龍とともに繁盛していましたが、平成11年総戸数112戸の大型高級賃貸マンション「ウィンコート」を建設。以来、歩いても住んでも楽しい緑豊かな栄ミナミの拠点となり、最近は高級マンションが林立しつつあります。

そして、ブラザーグループのプロジェクションマッピングも話題となり、公園南部の活用案として、公式サッカー場建設とか、1000mなごやタワー、繁華街の小中学校集約校などユニークな話題に事欠きません。