料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第77回(2017.8.23)

酒の肴に「かばやき町」…錦通りの変遷

蒲焼町名・吊看板 名古屋国際ホテル前、1-4丁目南北に約10m間隔で設置
蒲焼町名・吊看板 名古屋国際ホテル前、1-4丁目
南北に約10m間隔で設置

錦通り本町交差点より東へ4ブロック大津通まで「蒲焼町」の横文字看板があるのはご存知でしょうか?

最初は、ブルーの下地に黒字でしたが、すぐに現在の白地に変更されました。きっと、町内会の有志が旧町名復活を願ってPRされていると思われます。

沢井鈴一氏「名古屋の街探索紀行」によると、蒲焼町の町名由来には諸説があるとのこと。

『金鱗九十九之塵』(こんりんつくものちり)には、名古屋城築城以前、織田信長が香倍焼町と呼ばれた地に遊里を開いた。徳川の碁盤割の町づくりの後、香倍焼町がつづまって蒲焼町と称された。

『名古屋市史(大正4年版)』には、築城のとき諸国から城と町普請のために多くの人々が集まってきた。この地に茶屋、煮売り酒肴など城普請の人足相手の商売が盛んとなり、なかでも蒲焼を売る店が多かったので、いつしか蒲焼町と呼ばれるようになったとか。

『街巷事述考』では、桜の皮を焼いていろいろな細工物を作る職人が住んでいたから「かんばやき」町と呼ばれ、略して「かばやき町」と呼ばれるようになったとのこと。

名古屋城築城・清須越しの街づくりのために、蒲焼町界隈は多くの人夫や商人が集まる街となり、それらの人々を相手とする色里でした。賑やかな街に流れる紫川の泉も豊富で、「扇風呂」という銭湯が賑わっていたそうです。『尾張名陽図会』によると、肌がきれいになるといわれて芸妓に人気だった風呂の水は、名古屋三名水としてあげられています。他の二名水は、大須にある清寿院の飲用によい「柳下水」、清水口近くにある絵の具を溶くのに適した亀尾天神の清水です。

碁盤割の南、町衆の遊興地として栄えた蒲焼町通り。戦前は3間幅で飲食店街として賑やかでした。小林橘川(こばやし きっせん)名古屋市長は、“橘川道路”と呼ばれた100m幅などの巨大道路建設に伴い、高架鉄道の当初予定を変更して、幅員40m、6車線の「錦通り」と名付け露天掘りで大きな穴を掘り、地下鉄を名古屋駅・栄に開設することとなりました。

瀧定(株) 公開空地、ビルの谷間の緑で癒されます。
瀧定(株) 公開空地、ビルの谷間の緑で癒されます(左)。 錦通り由来石碑・瀧定(株)前道路、古今和歌集・素性法師より(右)

錦通りにも由来があります。都心の中にある瀧定ビルには、自然豊かな公開空地の小公園の石碑があります。古今和歌集の素性法師が詠まれている「見わたせば柳桜を こきまぜて 都ぞ春の錦なりける」という歌から、現代訳「ここから眺め渡してみると、柳の緑色と桜の色とが混ざり合って、都が春の錦のようであることよ」を引用して柳の広小路、桜通りの中間の蒲焼町を「錦通り」と名付けたと説明されています。

では、昭和34年地下鉄開通時の地図から、当時の思い出を語っていきたいと思います。

蒲焼町地図
地図:蒲焼町1-4丁目 錦通り南北・住宅地図協会 S35発売
キャバレー太平洋跡地
キャバレー太平洋跡地

南側、蒲焼町1丁目は東海銀行本店、酒卸・梅澤商店。2丁目は梅澤さんのスタンドバー、食堂が軒を並べ、「うなぎ平野」などの飯屋街は、その後、「キャバレー太平洋」となりました。10年ほど前に閉店した後、廃墟と化したキャバレー太平洋の建物は今も残っていますが、再開発のプロジェクトは決まっていないようです。

そして、東角は「寿司・喜多八」さん。終戦直後より現在地でご活躍です。街づくりにも熱心で、オーナー舟橋幸男・幸江ご夫妻は「宗春ロマン隊」を設立、尾張藩第七代藩主・徳川宗春の顕彰から、元気な名古屋を創る市民運動をされています。寿司会館の壁画は斎藤吾朗作、角の歩道には「宗春ポスト」、そして名古屋城での宗春もちまき大会、錦通りでの夏の「宗春パレード」など、話題には事欠きません。3丁目角にはふぐ料理「可ん寅」さん、映画館ピカデリー劇場、4丁目には名古屋東映など懐かしい思い出です。

喜多八・終戦直後の拡幅された蒲焼町の店舗
喜多八・終戦直後の拡幅された蒲焼町の店舗(左) 喜多八寿司会館ビル、白牛に乗る徳川宗春の壁画(中) 宗春開運ポスト:イタズラでキセルが損傷(右)
短歌会館・中庭には青木?子胸像・1Fには青木文庫図書館がある。
短歌会館・中庭には青木じょう子胸像
1Fには青木文庫図書館がある。

通りの北、瀧定(株)の西隣りとなる青木宅(都心芳舎と号される)は、昭和39年に歌人の青木じょう子(じょうは禾へんに農)により、名古屋市短歌会館として名古屋市に寄付された文化施設です。

青木自身も短歌会館において没しており(昭和46年)、中庭には同女史の銅像があります。地上3階、地下1階建てで、展示室・集会室・和室・図書室(蔵書・青木文庫)を備え、集会など市民が気軽に利用できる都心のオアシスとなっています。青木じょう子は高山の女流漢詩人・白川琴水の娘で、御主人は秤「守随本店」のご次男・守随錫氏とうかがっています。

我が朋友、北見昌朗氏は、蒲焼町について次のように語り、旧町名復活を提言しています。

作家の故城山三郎氏は、蒲焼町で生まれたそうだ。同氏は「私の育った名古屋は、幾度かの大空襲で焼野原になったあと、満州の曠野で都市計画をやった役人などの手で、戦後はいわば根こそぎ違う町につくり変えられてしまい、私には故郷がなくなった」と悔しがっている。「自分は故郷喪失者である」とも語っている。昔からの町名をもっと大事にしたいものだ。そうすれば、名古屋人が郷土に対してもっともっと愛着を持つようになるだろう。

そこで提言! 碁盤割の町名を復活させよう。