料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第92回(2018.11.20)

明治150年・栄ミナミ江戸末期のお寺巡り

明治2年本町、住吉界隈地図
明治2年本町、住吉界隈地図
名所団扇絵・柳薬師(名古屋市博物館蔵)
名所団扇絵・柳薬師(名古屋市博物館蔵)

今回は明治初年の地図から、本町・住吉界隈のお寺の変遷を紹介してまいります。

碁盤割の南、万治の大火(1660年)以降、防火帯としてできた広小路は道路というより庶民の広場・公園であったようです。溝川の西南には寛永5年(1628年)建立の臨済宗・古松山新福院があり、「柳薬師」と呼ばれて庶民の憩いの場であったといわれています。

柳の木で彫った薬師如来が安置されたか、柳の大木が繁茂している寺なので、柳薬師となったか定かではございません。毎年の夏の御開帳はたいへんな繁盛ぶりで、ありとあらゆる見世物や屋台夜店が並んだといわれています。

寺は明治7年に取り壊され、春日仏師の作といわれるご本尊の薬師如来は緑区大高の長寿寺に遷座されています。

柳薬師の枝垂れ柳が名所となり、東海道線名古屋駅が開設された翌年の明治20年、名古屋の街路樹第一号として、吉田禄在が開発した広小路通りにシダレヤナギが植えられました。四千本近くのシダレヤナギは広小路の景観に欠かせないものとなりました。

平成3年、名古屋市の広小路都市景観整備事業の一環としてシダレヤナギは切りとられ、街路樹はケヤキに替りました。「高層ビルが建つ近代的な街並みに、柳は似つかわしくない」というのがケヤキに変更された理由とのことですが、戦後広小路の名物「屋台と柳」がなくなったのは寂しい限りです。(参考:沢井鈴一著『広小路ものがたり』)

長円寺

その後、柳は南隣の長円寺境内地となりましたが戦災で焼失した他、長円寺境内には、尾張藩主が熱田神宮参拝の途中に休息されていたという古松「千尺龍松」、名古屋駅からも見えた大銀杏、全て戦災が原因で跡形もなく焼失してしまいました。(藤井ゆかりさん談)

また、柳薬師の跡地で、戦後、進駐軍相手の橋本モータースの橋本裕さん(昭和24年生まれ、小生の栄小1年後輩)のコメントを下記に紹介させていただきます。そう60年前には栄にホタルがいたようです。やはり紫川の泉がどこかに湧き出ていたのと思われます。

「長円寺の北側、まさに柳薬師だった地で生まれ育ったこと、知りました。家の南側が子供部屋で,窓の外は長円寺の境内(現在はチサンマンション栄2号館?)
網目のフェンスがあって、そこに何匹かのホタルがお尻を光らせていたという覚えがあります。
広小路通りはしだれ柳の並木でした。店前の柳の枝を一本取って『ムチだぞう』と遊んでいたことを思い出しました」

転輪山長円寺はこの度、創建350周年をむかえ、住職の娘の藤井ゆかりさんが記念誌発刊の準備をされていると耳にしております。教育委員会のボードにある、越智越人の墓・中村宗十郎の辞世碑は入口右にあり、誰でも見学できるようになっています。

越人(1656年~1739年)は名古屋本町にて紺屋を営み、松尾芭蕉の弟子俳諧師として活躍、蕉門十哲の一人で「更科紀行」の旅に同行したので有名です。

また、中村宗十郎(1835~89年)は名古屋熱田富江町の生まれ、上方で活躍した歌舞伎役者で、「名人延若、上手宗十郎、業物右團次」として話題となり、初代中村鴈治郎を育てるほか、明治初めの新しいスタイルの演劇にチャレンジしています。

長円寺庭・越智越人の碑
長円寺庭・越智越人の碑(写真左) 長円寺内・中村宗十郎辞世碑(右)

そして、昭和57年に岩城誠作設計士(料亭蔦茂建築担当)により「長円寺会館」を建設。オシャレな外観、そして和風数寄屋造りの内装が話題となりました。

当代、第15世藤井知昭住職は民族音楽学・人類学者で、文化庁の学術調査団としてフィールドワークにたびたび出向いております。音楽ホールの運営ほか、文化サロン「サンギータ」(サンスクリット語で芸術の場所)を主宰され、地域の多様なニーズに応えているユニークなお寺です。

藤井ゆかりさんのコメントによれば:

「長円寺の開基には2説ありまして、寛永4年(1627)以前説ですと、400年になります。
清州の須賀口から移転した中須加町(現栄2丁目5)組でした。「清須越し」の定義に入るか否かはグレーゾーンかもしれません。宝暦6年(1756)に、入江町通りを挟んだ浄土宗鎮西派凉源寺と寺地交換をして北側の現在地に移りました。

福恩時本堂
福恩時本堂 本尊の阿弥陀仏は住吉時代から戦災を免れました
(名古屋市中区千代田2丁目9-33)

入江町南の日蓮宗・涼源寺は清須越し以降の建立と思われますが、戦後は宝タクシー操車場、宝第1ビルを経て、現在は宝グループが近隣の問屋跡地とともに大型マンションの建設を進めています。

住吉町の浄土真宗大谷派・福恩寺さんは戦災で焼失後、昭和23年大池町現在の中警察北に移転しましたが、第14世当主がご本尊「阿弥陀仏」を疎開させ、現在も本堂に安置されています。

大池は明治44年に埋め立てられましたが、大池で水死した人の霊を祀る石碑が福恩寺本堂西に建立されています。石碑に書かれている字は摩滅していて、何が書かれているか判然としません。なお、お庫裏さんによれば同寺はもともと伊勢長島にあり、信長による一向一揆鎮圧で迫害されるため寺名をかえて、市内某所をへて住吉町から戦災で大池町に移ったとのことです。

紫式部の石碑があった浄土宗・法燈山傳光院は天正15年(1587年)僧・傳光が清州に開山、清須越しにて1621年に鉄砲町に移転しました。戦災で焼失後、復興し白川幼稚園を開設、名東区名東本町に昭和35年紫式部の墓とともに移転し、星ヶ丘幼稚園が併設されています。 (紫川について:住吉の語り部#1紫川

青松葉事件で処刑された渡辺新左衛門の菩提寺・真宗大谷派守綱寺についても、語り部#47 矢場町1丁目をご覧になってください。

また、東漸寺については、江戸末期に東照宮御旅所の一部が寺になったと想像されますが、研究不足で解明しておりません。

勝鬘寺:鐘楼、山門、太鼓楼、奥が本堂
勝鬘寺:鐘楼、山門、太鼓楼、奥が本堂
稚児行列記事:南大津通りホコ天
稚児行列記事:南大津通りホコ天

真宗大谷派寂光山・勝鬘寺は清須越し、慶長17年(1612年)に皆戸町に、その後、長島町に移り、成瀬正虎により現在地に創建されたのは寛永9年(1632)、または慶安年中(1648から52)との説もあります。本堂と山門は創建当時のものであり、太鼓楼は真宗特有の櫓を屋上にあげた形式で、この地の風物となっています。

10月15日には親鸞聖人750回忌と庫裏落慶祝いの稚児行列が南大津通の歩行者天国に花を添えています。後藤順正住職ご夫妻は地元イベントにも熱心で毎年の栄ミナミ音楽祭では由緒ある本堂でのフリーヒルズジャズオーケストラ、栄ミナミ男声合唱団の演奏が名物となっています。

白林禅寺、政秀寺、法光寺に関しては、改めて別の機会に紹介させていただきます。すべてのお寺に共通するのは、戦災でほとんどが焼失し、都市復興計画で敷地の50%以上を供出させられたこと。また墓が平和公園などに移設したことに伴い檀家離れが激しく、土地の不動産賃貸で経営を維持されているようです。