料亭つたも主人・深田正雄の住吉の語り部となりたい

第93回(2018.12.12)

栄ミナミの名刹:白林禅寺と政秀寺

尾張名所図会 第2巻より 左(北):白林寺、右8(南):政秀寺 西より望む隣接する両寺
尾張名所図会 第2巻より 左(北):白林寺、右8(南):政秀寺 西より望む隣接する両寺

江戸時代の東海山白林寺(はくりんじ)は、南寺町の北端、寛永2年(1625)夏、尾張藩主徳川義直が妙興寺より蘭叟紹秀を招聘して開山しております。

現在の矢場公園一帯約5000坪を寺領とした大きな臨済宗妙心寺派の寺院で、南隣の政秀寺と相似していることが尾張名所図会からわかります。

<東海山白林寺>

寺の由来は、同寺ホームページによれば:

尾張藩祖徳川義直公が名古屋城天守閣より南方を見渡すと真っ白に覆われた林があったという。よくよく見るとそれはシラサギが群れをなして休んでいる美しい光景であったと。
そこが成瀬正成の菩提を弔う所・白林寺となったそうである。
正成は、永禄十年(1567)正一の嫡子として三河足助郷で生まれ、幼名を小吉といった。幼少にして父と共に徳川家康に仕え寵遇をうけたという。天正十二年(1584)の小牧・長久手の役に出陣して首級を挙げ、家康から備前兼光の一刀を拝領した。時に十七才であった。元和二年(1616)七月義直が駿府より名古屋へ移るのに従って尾張へ入り、翌三年犬山城主となった。正成は、大名になるのが当然視されていたものの、家康に「愛子義直のために」と懇望されて尾張へ赴いたいきさつがある。そのかわり、家老の身でありながら一城を拝領し、一藩に準ずる別格の扱いをうけることとなった。

白林寺
白林寺案内板と広小路散歩コース(左) 白林寺山門(右)
明治2年矢場町地図・南北に隣接する白林寺と政秀寺
明治2年矢場町地図・南北に隣接する白林寺と政秀寺

白林寺は代々成瀬家の菩提所でありましたが、1945年(昭和20年)、名古屋大空襲で山門と御霊屋を残し焼失。その後、元の地に再建され、戦災復興土地区画整理事業により墓地は正成公の墓とともに平和公園に移動しております。

開発による接収と土地賃貸のため、現在の面積は600坪くらいとなりましたが、境内には戦前からの数本の楠が名古屋市の保存樹として青々と茂り、南には約50坪の畑もあり都心とは思われない緑の空間です。

昭和区にある檀溪橋・檀溪通は250年前第五世檀溪徹和尚が隠棲した地と言われています。昔、東郊第一の勝地として、文人墨客が足を運んだ幽邃の仙境であったところです。

そして、現在の武山廣道住職は名古屋禅センターを主宰され毎週木曜日の座禅会、禅の著作も多く、NHK文化センター講師などで禅の心や「般若心経」について語られています。

<瑞雲山政秀寺>

瑞雲山政秀寺(臨済宗)について、清須越400年事業ネットワークから引用すれば、

織田信長の守役の平手政秀は父・信秀の重臣であった。吉法師と呼ばれた幼少時代、奇行が多くうつけ者といわれた信長の良き理解者とされて来たが、天文22年(1553)信長を諫めるため自刃した。信長はその菩提を弔うために、小牧山の南に政秀寺を建立し澤彦(天正15年寂)を開山とした。その後、戦火で焼失、1585年に清須城下に再建、慶長15年(1610)に清須越しで矢場町に移転した。信秀が京都妙心寺から澤彦(たくげん)を信長の教育係に招聘。信長の名付け、「井ノ口」から「岐阜」の命名、「天下布武」の言葉を教えたのも澤彦といわれています。

政秀寺:庫裏と本堂(栄3-34-23)
政秀寺:庫裏と本堂(栄3-34-23)

清須越しの建物は北隣の白林寺のモデルとなる本堂、庫裏、座敷、書院でしたが、戦災ですべて焼失、昭和40年前後に再建されました。

本尊は木造十一面観世音菩薩坐像で、政秀の墓はかつて本寺にありましたが、今は名古屋市の平和公園内政秀寺墓地に移されています。无名会(むめいかい)という法話会が毎月継続され、名古屋の財界から昭和の名僧「山田無文老師」のお話を聞きたいとの要請でスタート。50年前から本堂で開催され、老師ゆかりの方々から気づきを得られるとのことで話題となっています。また、毎月第4土曜日の夕刻には「ささえあい坐禅会」も開催され、お抹茶をいただきながら気軽に座禅に親しんでいただけることも楽しみのひとつです。

両寺と守綱寺は尾張藩家老格の菩提寺で南寺町の北端に位置して、万が一の名古屋城への外敵攻撃の最終防御拠点として位置付けられていたと思われます。

現在は白林寺と同様に周辺の土地建物を賃貸されて運営の一助とされているようですが、昭和30年前後の木造建物が多く老朽化が激しくなってまいりました。

寺所有の周辺土地は、建物所有者・居住者が異なり、転貸物件も多く権利関係が複雑に入り組み地域の再開発には課題が多いように思われます。また、一部戦災で焼失を免れた所もあり、戦後の区画整理が不十分な地区で道路幅も狭く電線の地中化も困難となっています。今後は、江戸時代のような寺社を中心とした街づくりを考えていくことも大切に思います。

現在の法光寺:昭和区花見通2-3
現在の法光寺:昭和区花見通2-3

政秀寺西の慈雲庵門前は明治4年(1871)に勝鬘寺地子に合併されました。また、真宗大谷派法光寺は戦後、一部再建されましたが昭和40年頃、八事山王通り角に移転しております。

跡地には三重の大同相互銀行と名古屋信用金庫が合併し、株式会社中京相互銀行(現・中京銀行)に商号を変更し、昭和44年(1969)本店を現在地に移転しております。