豊田佐吉・喜一郎を支えた偉大な人々

石田退三
トヨタの再建を成し遂げた大番頭
豊田浅子
豊田佐吉を支えた糟糠の妻
石川藤八
佐吉の最初の支援者。半田で綿布工場を造る
藤野亀之助
佐吉の人生最悪の瞬間に支援の手を差しのべた三井物産幹部
児玉一造
弟・利三郎を豊田家に婿養子に入らせ公私ともども支援
服部兼三郎
佐吉の盟友。石田退三の恩人でもある

「豊田佐吉翁~明治名古屋の偉人の歴史を語る」

北見昌朗に講演をご依頼下さい。

佐吉翁といいますと、どこの人だと思いますか? 
多くの人は湖西市の出身だと思いますよね。確かにその通りです。でも人生の大半を名古屋で暮らしてるのをご存じですか?
27歳の時に名古屋で事業を創業して以来、亡くなるまでの大半を、名古屋で暮らしています。

大正時代になってから刈谷などの三河に工場を建てますが、自宅は名古屋でした。

そういう意味では、佐吉翁は名古屋人です。

名古屋の歴史の語り部・北見昌朗に講演をご依頼下さい。 
名古屋の明治時代の古地図を手にしながら、その偉業を語ります。

佐吉翁の創業の地は、朝日町1丁目で、現在の興和本社近辺です。今の住所では錦3丁目6番地です。

ちなみに、佐吉翁の生涯をここに紹介させて頂きます。
参考となるサイトは、豊田自動織機のサイトです。

豊田佐吉翁は、1867年(慶応3年)、現在の静岡県湖西市に生まれた。幼少時代から優れた資質を持ち、13歳を過ぎた頃より新聞・雑誌を読みふけり、国家や社会、人生などについて深く考えこみ、何か成しうる国家的事業は無いかと考慮を重ねる毎日だった。
1885年(明治18年)、18歳の時に専売特許条例が公布され、一生を通じて発明事業に没頭することに決め、それ以来、発明を志した。そうして、最初に原動力を案出しようと永久・無限動力の発明にとりかかった。しかし、なるべく早く、国・社会のためになるものを、との思いから、当時政府の主導で機械化され大規模に行われ始めた糸紡ぎ以上に、作業負荷の高い織布こそ機械化して、大仕掛にする必要があるとの考えのもと、動力機械の発明・研究に専念した。
ただし、当時の織布業の経営実態などを考慮して、まず簡単で身近な手織機から着手し、苦労の末に1890年「豊田式木製人力織機」を発明し完成させ、初めて特許を取得した。

しかし、人力織機では能率に限界があることから、再び当初から目指した動力織機の研究に着手し、1896年、遂に日本で最初の動力織機である「豊田式木鉄混製動力織機」の発明・完成に成功した。
この発明により佐吉翁の工場には、時の総理大臣をはじめ、政府高官ほか名士多数が訪れて惜しみない賛辞が送られた。なかでも大隈重信伯からは、「発明という仕事は、外国人と知能の戦争をすることである、負けをとらないようにしっかりやってくれ」と激励があり、さらに、従業員に金一封が授与されたという。

こうして32歳の佐吉翁は日本一の織機の発明者として全国に謳われるようになる。
この高い生産能力をもつ動力織機は、瞬く間に広く普及し、時流に先んじた発明・完成で、日清戦争で疲弊した国家財政の建て直しという、国策の遂行に大きく貢献した。
1899年12月には、三井物産より要請があって、織機の製造販売に関する契約が結ばれ、合名会社井桁商会が設立された。
佐吉翁の発明・研究はさらに着々と進み、1901年10月には経糸(たていと)送出装置の特許を出願する。この送出装置は現在も使用されている装置の原型をなすもので、画期的な発明であった。その他にも織機の自動化に向けた重要発明に成功し、試験研究と創造を重ねていった。
そうして佐吉翁は「発明の足場」として、1911年(明治44年)に豊田自働織布工場(後の豊田自動織機製作所の栄生工場で、現在は産業技術記念館)を設立し、研究および発明、創造を重ねた。
発明上の信念とする「創造的なものは、完全なる営業的試験を行うにあらざれば、発明の真価を世に問うべからず」に基づいて、紡織一貫の大規模で長期の営業的試験、研究を操り返した。そのうえ更に、より完全なる試験を行うため、新たに愛知県刈谷町に営業的試験工場を設立した。

そして1924年11月、佐吉翁は遂に、世界最初で最高性能の完全なる「無停止杼換式(ひがえしき)豊田自動織機(G型)」を誕生させた。このG型自動織機は、高速運転中に少しもスピードを落とすことなく、円滑に杼(ひ)を交換して緯糸(よこいと)を補給する完全なる自動織機であった。この自働織機は、従来の織機の15~20倍以上という画期的な生産性と合わせて、織物品質も大幅に向上させた。
このG型自動織機の発明・完成は、国際労働会議の決議による工場法の改正、「女子・年少者の深夜業の禁止」と世界的な不況克服の産業・経営合理化対策など、時流に先んじたものであった。国家の危機を救って、産業革命にも等しい発明を遂げさせ、広く各国の繊維産業の発展に大きく貢献し、発明を目指した佐吉翁の思想は見事に実現された。


豊田佐吉記念館のサイトも参考になります。

豊田佐吉生家 (1990年10月復元)
トヨタ自動車をはじめ、トヨタグループの始祖がここにある。佐吉翁はもちろん、トヨタ自動車の創始者、喜一郎氏もここで産声を上げていると言う。周辺には展望台や記念碑も見ることが出来ます。入場は無料です。

自動織機などの発明者である豊田佐吉翁のゆかりの品々が展示してあります。敷地内には、父親に隠れて、研究に明け暮れた納屋。毎晩のように夜学会を開いていた観音堂などたくさんの遺産を見学する事が出来ます。

障子を開けてみよ。外は広いぞ
佐吉翁が言ったこの言葉の中に含まれる意味の 広さを感じるのは、私だけではないと思う。 貧しい暮らしの中で母親に楽をさせてあげたい と言う気持ちから、 世界に冠たる発明を達成させてきた佐吉翁らしい 表現ではないでしょうか。

佐吉翁の胸像
豊田佐吉翁は、1867年この地に生まれ、自動織機の発明や日本の産業の発展に尽くした功績計り知れないものがあることは、誰もが知る所です。
佐吉翁の情熱や志を感じる事が出来る空間が ここにあるように思います。

数々の発明品の展示が・・・
展示室には佐吉翁が発明した数々の織機が展示されています。中でも写真右の39式木鉄混製動力織機1906年(明治39年)は、汎用性と能率の向上を図り、安価で販売し、人気を博し注文が殺到したとも言う。
豊田紡織の礎を築いた織機ではないでしょうか。

日本初の特許など
佐吉翁が取得した特許は、日本はもちろんの事、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスなど世界で認められ、1924年(大正13年)完成のG型自動織機は、当時世界のトップメーカーであった、イギリスのプラット社に100万円で特許権を譲渡していると言う。