古地図  旧町名の概要と由来

花の名古屋の碁盤割

「花の名古屋の碁盤割」という歌の音源をお聴きいただけます。

mp3

音源はこちら

歌っているのは【平安桜】さんです。
普段は「平安桜」という名前で三味線とオカリナにより演奏をされてます。

平安桜

「この『花の名古屋の碁盤割』は中区の100周年記念事業に合わせて作ったもので普段は歌ってないのですが、せっかくなので今後はこの曲ももっと広げていけたらいいと思い、現在この曲を『音頭』や『子供向け』などにアレンジしている最中」とのことです。

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名古屋の旧町名の読み方を北見昌朗が解説しています。
車町(くるまんちょう)、桜町(さくらんちょう)、魚之棚(うおんたな)等々、面白いですね。

沢井鈴一先生のサイトを紹介させていただきます。
ここを見ると、旧町名がよくわかりますよ。http://1st.geocities.jp/s_suzuichi/

花の名古屋の碁盤割 町名由来記(沢井鈴一先生執筆)

京町筋

片端通の南、西は五条町から東は萱屋町に至る横筋である。碁盤割の町筋の北端の通りで、裕福な商家が軒を並べていた。

五条町

京町筋の西端に位置する町である。
町域は五条橋より御園町まで。慶長年間の清須より移住した清須越の町である。移住直後は上畠町西の切と呼んでいたが、貞享三年(一六八六)十月、五条町と改名した。

上畠町西の切から五条町と改名したのは、堀川に架かる五条橋の名に由来する。

五条橋は、慶長十五年(一六一〇)、遷府とともに清須から移ってきた。清須城の前を流れる五条川にかかっていた橋で、別名、御城橋とも呼ばれた。擬宝珠の銘には「五条橋、慶長七年壬寅六月吉日」と刻まれている。銘により、この橋が清須城主松平忠吉が慶長七年(一六〇二)に築造したことがわかる。長さ十五間(約二七メートル)幅三間(約五・五メートル)、杭は八組であった。明治三十四年に改築された。現在架かっている橋は、コンクリート造で、擬宝珠はレプリカである。本物の擬宝珠は名古屋城で保管されている。

五条町の町家の庭に、不思議な井戸があった。潮が満ちてくると井車は自然と止まり動かなくなる。干潮になると動き始めるところから、この井戸は「満潮干井」と呼ばれた。自然現象を利用した、大がかりな天体時計というべきものであった。

名古屋の町で、油を初めて商ったのは、五条町の和泉屋順正、本町の久右衛門の父子であった。この二軒の他に、油屋はなかった。後に江戸屋十兵衛が黒油を売るようになった。寛文十年(一六七〇)まで、油屋はこの三軒だけであった。

五条町は明治四年、上畠町とともに和泉町に合併。昭和四十一年、丸の内一丁目となる。

上畠町

町域は京町筋の御園町より伏見町まで。慶長十五年の清須越の町である。

町名由来については二説ある。一説は清須の上畠町より移住してきたので、旧名を用いて上畠町と名付けたという説である。異説はこの地は那古野村のはずれで、岸の上に畠があったので名付けたという説である。

貞享三年(一六八六)十月、上畠町西の切を五条町、東の切を和泉町と名付け分離、独立させた。

『尾張志』は「此町を万治三年(一六六〇)焼失絵図に枕町と記せる。いかがあらむとさだかならず」と記している。

東照宮祭礼の山車雷電車は、三つの町に分離した以後も、三町が交代で車番を務めた。

明治四年、五条町とともに和泉町に合併。昭和四十一年中区丸の内一丁目となる。

和泉町

町域は京町筋の伏見町より桑名町まで。『尾張志』は慶長十五年、清須越の町である、あるいは遷府以前の町家であると二説あるが、いずれも決しがたいとしている。

貞享三年に、上畠町から分離、和泉町となる。町内の酒屋、清水屋は、庭からわきでる泉を使い銘酒を造っていた。その酒銘、泉富貴涌のように商売が繁盛するようにと願って和泉町と命名したという。(『尾張名陽図会』)
明治四年、上畠町、五条町を併合。西は五条橋から東は桑名町筋までの、一丁目から三丁目までの町筋ができあがった。

明治中期に大火が起り、二十数軒が炎上。しかし、その後は、火災の難を逃れ、第二次世界大戦でも、東照宮祭の山車、雷神車こそ燃えたが、町はあらかた類焼をまぬがれた。戦前の碁盤のくらしをしのばせる閑所が、この町内には二つ残っている。慶長遷府のさい、尾州藩御用達をつとめた桔梗屋の分れが美濃忠。店は改装されたが、現在も昔と変わらぬ場所で商売をしている。道をはさみその前の、戦前の旧家の名残りをとどめ佇む豪邸が、米相場で一代で財をなした高橋彦次郎の子孫の住む家。

屋根神さまの祀ってあった跡なども、町内を歩けば見つけることができる。

昭和四十一年の町名変更により丸の内二丁目となる。

益屋町

京町筋の桑名町より長島町まで。名古屋城築城以前よりあった古い町である。一説によると織田信雄の時代よりあった町であるという。益屋彦右衛門という酒屋が、長年、この町でくらしていたので、正保二年(一六四五)より、益屋町と呼ばれるようになった。

この町の住人、井桁屋孫右衛門は、白粉の薬、美艶仙女香を商っていた。美艶仙女香について『金鱗九十九之塵』は、次のように記している。

この薬は、享保十一年(一七二六)清朝人の船長、伊孚丸が長崎に船泊していた時、丸山の遊女近江屋の菊野に与えた顔の薬である。清朝の女性は、いつもこの薬で顔をよそおい飾った。この白粉の製法は秘伝で、故あって江戸坂本氏に伝わっている。

三世瀬川菊之丞の俳名を仙女という。それにちなんで付けられた名前が美艶仙女香である。坂本氏は、南伝馬町三丁目稲荷新道に住んでいた。

仙女香やたら顔出す本のはし

と詠まれるほど錦絵、草双紙などに、この白粉は宣伝された。英泉の浮世絵「今世美女競」の白粉包の題簽には、一包四十八銅と記されている。文政の初めから天保の中頃まで、仙女香が、おびただしい数の錦絵や草双紙に登場している。宣伝効果は抜群であったろう。これは、仙女香の販売元の坂本氏が、この頃の絵草紙などの検査役であったため、版元がゴマすりのために掲載したものだ。

益屋町は、明治五年、茶屋町に合併。昭和四十一年、丸の内二丁目となる。

大和町

町域は長島町より長者町まで。元和三年(一六一五)の清須越の町である。名古屋城築城の時、大工棟梁の中井大和守正清が、この町に居住していた。大和守が元和四年、京都に帰った後、その名をとり大和町と名付けられた。

中井大和守正清は徳川家康の側近で、大工頭として、家康の関係した造営のほとんどすべてにたずさわった人物だ。名古屋城築城の作事奉行として、大久保長安、小堀政一、村上三右衛門等の大名とともに任命された。

中井大和守が京都に移った後、その屋敷を百五十両で買求めたのが、清須の長者町の住人岡田佐次右衛門だ。中井大和守は、家を佐次右衛門に譲る時「この家を建てる時、家師匠より相伝の秘事をもって火災除けがしてある。棟木に呪い込置いたので、いつまでもこの家は火災にあうことはない」と語った。

大和の言った通り、佐次右衛門の屋敷は、火災にあうことはなかった。引越しの時、屋敷の庭に大和は梅の木を植えた。季節ともなれば美しい花を咲かせ、妙なる香りを発した。中井梅と称せられ多くの人々が梅見に訪れた。

佐次右衛門は、大和町で、現金かけ値なしの呉服物を商う備前屋を開いた。この店はたいそう繁昌し、佐次右衛門は名古屋有数の分限者となった。四代目の佐次右衛門が芭蕉の門人で、俳人として名高い野水だ。

テレビ塔の下に、蕉風発祥の地の記念碑が建っている。芭蕉の仮宅がこの地にあり、屋主は傘屋久兵衛、家請が野水であった。貞享元年(一六八四)『冬の日』五歌仙は、この家で巻かれた。

芭蕉の「狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉」の発句に、野水が「たそやとばしるかさの山茶花」と脇を付けた。時に野水は二十七歳であった。

はつ雪のことしも袴きてかへる

この句は元禄十三年(一七〇〇)から十七年まで惣町代として、多忙な日々を送った野水が、おのが感慨を詠んだ句である。

明治五年、茶屋町に合併。現在は丸の内二丁目である。

茶屋町

町域は、京町筋の長者町より本町まで。呉服所茶屋中島氏が邸宅をかまえていたので、その屋号をとり茶屋町と呼ぶ。

『小治田之真清水』に、象が唐人に引かれて、この町を通って ゆく図が描かれている。

象は享保十四年(一七二九)、将軍吉宗に献上するために、はるばる長崎から江戸へ向かってゆく。往来に出ることはむろんのこと、話し声ひとつもらしてはいけないという触れが出ていたので、人々は息をひそめて、両側の町家から、象が通り過ぎてゆくのをのぞいている。茶屋氏の物見長屋からは、藩主がお忍びで、この象を見ていた。異国人や異国の珍獣が城下を通る時には高貴な人々は、茶屋氏の物見長屋から見ていたという。茶屋氏について『小治田之真清水』は、

茶屋は中島氏江戸の御服所と同家にして、由緒のすぐれたる事は世に知るごとく、玉海集(明暦二年刊行)にも月の発句のうちに、茶屋といふ人のもとにて、
たべて見ん代々茶屋の望月夜 直能
と見えたり。二百年以前にも、かくの如く代々と称して、いと栄えたりし旧家なる事を知るべし。

と記している。思うにかなわない事は何一つない。茶屋氏の繁栄ぶりをたたえた文だ。

茶屋氏に劣らず繁栄したのが、松坂屋の前身、いとう呉服店を開いた伊藤次郎左衛門家だ。伊藤家の遠祖は信長の家臣伊藤蘭丸祐広。その子祐道が慶長十六年(一六一一)清須から名古屋に出てきて、本町で呉服太物業の伊藤屋を開く。三代目の祐基から次郎左衛門を名のる。万治二年(一六五九)茶屋町に移り呉服太物問屋となる。後に小売業に転じ「現金売り掛け値なし」の商法が大当りをして、財をなしてゆく。延享二年(一七四五)京都に支入店の開設、明和五年(一七六八)の江戸上野の松坂屋の買収と全国的規模な店へと転身をする。

「伊藤とかけて仙台銭と解く、心は田舎出来でも日本通用」と天保年間(一八三〇?四四)のなぞなぞに、なるような店に発展していった。

いとう呉服店は明治四十三年、茶屋町から栄町へと移り、座売り形式の販売から百貨店形式の店へと変ってゆく。

二軒の豪商が京町筋をはさみ、対峙していたのが茶屋町だ。

明治五年、益田町、大和町を併合する。現在は丸の内二丁目となっている。

両替町

京町筋、本町通と七間町通の間。『尾張志』は町名由来について「金銀両替するもの九軒を清須より移して町の名とす。今は平田と称するもの二軒残れり。あるいは慶長年中に京の後藤庄三郎の通ひ所ここに有しともいひ伝ふ」と記している。『名古屋町名由緒記』は、その間の経緯を次のように記している。

慶長十八年(一六一三)京都の金工家で、のち幕府の金座頭人を勤めた後藤庄三郎が、この地に通い所を建てた。清須より移住してきた両替商九軒のうち、二軒の代表が京に行き、庄三郎を尋ねた。「尾張の国には、まだ両替屋がないので不便だ。なにとぞ、通い所を両替屋としたいので、もらいうけたい」と願い出た。庄三郎は「とても承知できない」と答えた。

庄三郎は、御用の筋で駿府に出かけた。二人も庄三郎の後を追い、駿府に向かう。二人は、庄三郎に再度、願い出た。庄三郎は「遠い所をわざわざ尋ねてくれて、その熱心さに感動した。願い出の件は承知した」と言った。

庄三郎が承知したことにより両替屋が二軒でき、町名も両替町と名付けられた。

両替町の二軒の両替屋は西の平田所、東の平田所と呼ばれた。東の平田所を経営するのは平田惣助家、西の平田所を経営するのは平田新六家。

両家は金銀や新札の正贋を鑑定した。真正である金銀は包装し、証印をおした。これを平田包という。また平田所では現金を包む代りに、金銀を記載した受取手形を発行した。これを平田配布という。新旧の貨幣の交換なども、平田所で行なわれた。

明治五年三月、京町、諸町を併合し、両替町となるも、明治十一年には京町と改称された。

昭和四十一年の住居表示により丸の内三丁目となる。

京町

京町筋の七間町より伊勢町までの間をいう。清須越の町で、清須当時の町名を、そのまま用いた。清須へ多くの商人が移り住み、呉服物、細物、太物類を商っていたので、京町と名付けられた。

名古屋の京町は、清須の呉服物の商店が並ぶ町から、大坂の道修町に匹敵する薬種商の町へと変貌していった。代表的な薬種商としては、長崎から直接唐物の薬を仕入れ、販売していた生田治郎八。今川義元の家に代々伝わる今川赤龍丹を販売する日野屋六左衛門。価銀四匁五分の山帰来という薬を売っていた山口利兵衛がいた。

現在も京町で商売をしている中北薬品の祖、井筒屋中北伊助が、この町に店をかまえたのは寛政年間(一七八九?一八〇一)のことだ。
「好事魔多し」安政二年(一八五五)二月二十五日の夜、井筒屋の伊助方の風呂場より出火し、京町全域を燃え尽くしてしまった。井筒屋だけでも八千両の薬が灰になった。
井筒屋は謝罪の意をこめて、毎月二十五日は風呂をたかないという。現在に至るも中北家では、この家憲を護っている。

安政二年の大火をきっかけとして、京町は、さらに薬種商の町として発展していった。
明治二十年には、漢方薬にかわり、初めて船来薬(洋薬)が京町で販売されるようになった。
大正初期には薬祖神社をつくり、四十軒の問屋の守り神とした。

町内には薬種商の他、町医の蘇森子桂が住んでいた。子桂は河村秀根(著名な国文学者で尾張藩士)に数十両の借財をしていた。借金を返すあてもない。そこで子桂は秀根が幕府討伐の密談を重ね、反逆を企てていると幕府老中松平右近将監の用人に密告した。負債を免れるとともに、賞金を得ようとして企てた事件だ。幕府が厳しく糾問した結果、誣告の事実が露見した。子桂は、江戸市中を引きまわしの上、獄門に処せられた。安永七年(一七七八)のことだ。

京町は明治五年、両替町に併合された。明治十一年には再び京町の町名は復活した。

昭和四十一年、住居表示により丸の内三丁目となる。

諸町

京町筋の伊勢町と大津町の間をいう。慶長十五年(一七一〇)の清須越の町である。

清須越当時は片側だけに家が建ち並んでいたので片町と呼ばれた。元和二年(一六一六)北側に町家ができ両側となったため諸町と改称した。
『名古屋府城志』は、町名が諸町となった年を、寛永三年(一六二六)としている。

町内には蝋燭屋忠兵衛が住んでいた。文禄三年(一五九四)泉州堺の商人納屋助左衛門が、呂宋(フィリピン)に渡り、帰朝の節に持ち帰ったのが蝋燭の始まりであるという。
三勝文十郎は鷹狩の時、鷹匠の使う皮、狸の皮の手袋をつくるたかたぬきし師として有名であった。

明治五年、両替町と併合され両替町、同十一年京町と改名になる。昭和四十一年の住居表示では丸の内三丁目となる。

中市場町

京町筋の大津町通と久屋町通の間の町。清須越の町で、清須には北市場、中市場、西市場という市があった。中市場は、毎年市日が開かれ、川魚、野菜などが売られていた。その中市場が慶長十四年(一六〇九)清須越で名古屋に移り、旧名を用い、中市場とした。

『尾張志』は、清須越の町であるというのは誤りであるとしている。「那古野に今市場、中市場、下市場とて方八町の町家ありしよし地方古義に見えたる。其うちの中市場の残れるなり」と築城以前より中市場は、名古屋にあったとしている。

中市場町は、明治四年、石町の一ヵ丁を合併。昭和四十一年、丸の内三丁目となる。

魚の棚筋

京町筋の南の横筋、堀川より久屋町までをいう。魚の棚と呼ぶのは町名ではない。本町通の東西の辺で、魚を売る店が多かったので、魚の棚筋と呼んだのである。

車之町

車之町は、魚の棚通の堀川より桑名町までをいう。この町は清須越以前より、今市場天王前の地にあったが、慶長年間、名古屋城築城とともに、碁盤割の地に引移ってきた。町名を正保・慶安(一六四四?一六五二)頃までは一丁目と呼んでいたが、承応年間(一六五二?一六五五)に車之町と、町名を改めた。

毎年六月に行なわれる那古野神社の例祭である天王祭は、名古屋屈指の賑やかな祭であった。その祭を取りしきり、台尻車の総車元となったのが、町内に住む豪商(木綿問屋)磯谷屋忠右衛門であった。

台尻車を出す町というので、車之町と名付けられたという。台尻車とは、中心の柱に十二個の提灯を飾り、外側に一年中の三百六十個の提灯をつけた車である。

また一説には、今川左馬之介が那古野の地を支配していた時代、この町は那古野神社南の町筋にあり、すべての家が那古野神社の氏子であった。天王祭には台尻車が、この町から出されたので、自然に車之町と呼ばれるようになったという説である。

磯谷屋忠右衛門の家が、三の丸中小路にあった頃、庭に大きな松の木がそびえていた。その松をアエバの松、俗名磯谷丸と呼んだ。松は名古屋の名木として名高く、磯谷家も名古屋を代表する木綿問屋として栄えた。

町内には、真宗高田派の広井山至誠院がある。この寺は真光院玄爾大師が慶安元年(一六四八)、広井村に建てた寺である。その後、爾観大師の貞享二年(一六八五)現在地に移ってきた。江戸時代には、境内が四八九坪ある広大な寺であった。

至誠院が移ってくる以前には、この地に日蓮宗の聖運寺があった。寛永六年(一六二九)四月、日蓮宗の慶賛上人の建立によるものである。その後、聖運寺は堀川端の日置村に移っていった。

小田原町

小田原町は、魚の棚筋の桑名町より本町までの間をいう。慶長十五年(一六一〇)清須越当時は東一丁目と呼んでいたが、承応元年(一六五二)小田原町と改名した。一説には寛永十七年(一六四〇)あるいは慶安元年(一六四八)に改号したという説もある。

小田原の町名由来は、江戸魚屋町が小田原河岸と呼ばれていたところから付けられたものという。

魚屋の町、小田原町に河内屋林文左衛門が料亭河文を開業したのは、元禄年間のことだ。以後、御納屋、近直、大又と続き、この町に料亭が開業し魚の棚四軒と呼ばれた。
料理屋に芸者は付きもの。文政年間から芸者が料亭で客の取りもちを始めるようになり、しだいに、その数はふえていった。明治六年には、長者町に盛栄連が誕生した。

文化九年(一八一二)のことだ。この町の鷹屋久右衛門の家で、唐から渡来の丹頂鶴が公開された。多勢の見物人で賑わったという。その時に天通亭馬勤は、次のような歌を詠んだ。

くれなゐを頂く鶴の毛衣は白きに黒の色をかさぬる

万屋町

杉の町筋、御園町通と本町通との間。

清須越当初は、旧名の二丁目を称していた。その後、松屋町と号す。寛文元年(一六六一)将軍綱吉の娘、松姫の松の字を使うなどは恐れ多いというので、雑多な商人が住んでいるので万屋町と改名した。

町内には禅宗臨済派の金剛寺があった。第二次大戦で焼失したので、武平町通東側に移った。開基の山堂首座は百三十六の長寿を保った僧だ。

江戸時代、万屋町には古手物を商う店が多くあった。その町筋の六割までが古着商であった。

明治四年、万屋町を東・西と分けた。明治九年、西万町と改称した。現在は丸の内一・二丁目である。

永安寺町

魚の棚筋、本町より久屋町までの間の町をいう。慶長年間、清須の永安寺門前の町家を移したので、永安寺町と名づけられた。永安寺は、この町には移されず禅寺町(東区)に移った。

明治四年九月、伊勢町筋を境に東の三丁を東魚の棚町、西の三丁を西魚の棚町として分割。さらに九年、東魚町、西魚町と改称。

昭和四十四年の住居表示により東魚町、西魚町とも丸の内三丁目となる。

杉の町筋

魚の棚筋の南の横筋である。堀川より高岳院門前までの筋で、そのうち堀川より御園町までは、武家の蔵屋敷、商家が建ち並び、御園町より本町まで五町を、万屋町あるいは杉の町と呼んでいた。久屋町までの町家は皆それぞれの縦町に属していた。久屋町より東は皆武士町であった。

桜の町筋

杉の町筋の南の横筋である。堀川より久屋町まで十三丁の間をいう。そのうち長島町より本町まで二丁を小桜町と呼び、縦町の小桜町に属していた。その他の町も、それぞれの縦町に属する。

伝馬町筋

堀川より奥田町までの桜の町筋の南の横筋である。

伝馬町

伝馬橋から東、奥田町(新栄三丁目)に至る伝馬町筋の西端に位置し、木挽町筋と七間町筋との間、ほかに七間町筋から大津町筋との中間北側が町域である。町名の由来は、清須以来伝馬役を務めていたからである。

清須越の町であるが、移ってきた時期については諸説ある。『尾張志』はこの町について、

慶長十五年清須の伝馬町をうつして伝馬役をつとむ事もとのごとし。旧広井の八幡山にて瓦をやきし事ありし故桑名町より西の辺を瓦町といひしとも云伝へたり。伝馬会所本町の西南角にあり。制札同所東側にあり。遠見櫓本町七間の間北側にあり。と紹介している。

『尾張志』の伝えるところによれば、遷府以前桑名町筋以西の地は泥江縣神社の山林であった。築城にあたり、ここで天守の瓦を焼いたので瓦町と呼ばれた。築城が完成し、瓦師が各地に移住した後は、瓦町は伝馬町に属する事となった。

名古屋第一の交通の要地、伝馬町には問屋場が置かれていた。常備の人足百人、伝馬百匹で美濃路、飯田街道、上街道、下街道をゆく旅人の便をはかっていた。問屋場の幕や提灯などには、薬研を丸で囲んだ印が使用された。これは荷物はここで下ろせという意で用いられたものである。

問屋場には、槍や刺又、突棒が備えられ、他国からの不審者に目を光らせていた。

寛文五年(一六六五)からは、飛脚問屋が置かれ、江戸と名古屋との書状や荷物の取扱いを始めた。江戸まで、七日間で荷物や書状は届いたという。

本町通と伝馬町筋との交差地点には、高札が建っていて、札の辻と呼ばれた。名古屋への距離の測量は、この札の辻が起点であった。

享保十二年(一七二七)には、高さ二七間(約三七メートル)の遠見櫓(火見櫓)が建てられた。ここの番人に定八という親孝行者がいた。天明三年(一七八三)このことが上聞に達し、青銅三貫穴が下賜された。

名古屋第一の交通の要路であり、繁盛地であった伝馬町には、多くの名門、旧家が軒をかまえていた。昔より今もこの地で商売を続けているのが、お茶の升半だ。升半こと升屋横井半三郎家は、枇杷島(西区)で、小さな店をかまえ茶を商っていた。江戸後期、おりからの茶事流行のブームに乗り、消費量が大幅に増加する。茶の産地、山城の茶師たちは、挽茶の販売を独占しており、容易に値下げの要求に応じない。半三郎は、自ら販路を獲得し、地元で仕入れから販売までの流通経路をつくりあげた。

天保十一年(一八四〇)半三郎は伝馬町に進出し、挽茶業を創業した。

伝馬町は明治四年に、一丁目から三丁目は小伝馬町、四丁目から七丁目は大伝馬町、本町筋以東は宮町へと三分割された。十一年には大伝馬町、小伝馬町は合併、伝馬町となる。

昭和四十一年、錦一・二丁目となる。

宮町

伝馬町筋の七間町より武平町まで。清須越の町で、慶長年間にこの地に移ってきた。清須当時の町名を、そのまま用いて宮町とした。

『名古屋府城志』は異説を紹介している。

宮町は清須よりの旧名にあらず。宮町の内に古社(宮)一社あり。因て町の名とするなり。今堀弥九郎の宅地宮町の界に其社あり。
『名古屋市史』は、久屋町筋と武平町との間、中程の北側の裏に古榎の大木が天保年間(一八三〇?四三)の頃まであった。これは昔、この辺りにあった、社頭の大木であったという。この社があったので、宮町と名付けたとしている。

享保十二年(一七二七)火の見櫓が町内に設けられた。これは八事山大日の狼煙の見張りと城下の火災発見に備えて建てられたものである。

町内には、大八車屋の主人で、『金鱗九十九之塵』の作者、桑山清左衛門が住んでいた。

明治四年、本町筋以東の伝馬町の一部を合併、町筋より東の区域を割いて神楽町として独立。町内にかつて坂があった。その坂が神社の拝殿跡ということで神楽坂と呼んだ。神楽坂の町名由来は、それにちなんで付けられたものだ。また七間町筋と呉服町筋との間の南側は杁の口町と呼ばれた。これは町屋裏に、大杁があったことに由来する。

昭和四十一年、住居表示により錦三丁目となる。東区の部分は東桜一丁目となる。

袋町筋

伝馬町筋の横筋である。御園町より久屋町まで十一丁、そのうち長島町より本町まで二丁は、慶長十五年、清須の小塚村袋の内から移住して袋町と呼んだ。その他の町はみなそれぞれの縦町についている。

袋町

袋町筋の長島町通から本町通に至る二丁が袋町である。慶長十五年(一六一〇)清須本町の小塚田所の袋の内から移ってきた。旧号をとって袋町と名付けた。本来なら伝馬町筋となる所が、西方の泥江縣神社の山が障害となって一丁北に移された。

町内には真言宗、如意山福生院がある。

福生院は大聖歓喜天が鎮座している寺として有名。お聖天さまと呼ばれ、人々から広く信仰されている。

開山は蜂須賀村蓮華寺(現在の海部郡)の五世順誉上人。至徳年間(一三八四?一三八六)愛智郡中村(現在の中村区)に建立された寺である。元和三年(一六一七)中村より、この地に移されてきた。

戦前は骨董屋の町、戦後は「タテの長島町、ヨコの袋町」と呼ばれた有数の繊維問屋街であった。

明治四年、八幡町と合併。町域は木挽町通から本町通までとなる。昭和四十一年錦一丁目、二丁目となる。

鶴重町筋

袋町筋の南の横筋である。堀川より久屋町まで。ただし武士町も入り交っている。呉服町通より鍛冶屋町通までは鶴重町に属し、他は縦町についている。

鶴重町

伊勢町通の練屋町の南にあり、伝馬町筋から広小路までと袋町通、本重町通、蒲焼町通、広小路通の東西へそれぞれ半町を町域とする。

清須当時は新町と呼ばれていた。新町に刃物鍛冶の丹羽三左衛門という鍛冶がいた。三左衛門は伊勢神宮に二七度参拝し、よい刀鍛冶になれることを祈願した。ある日、夢の中で刃物の銘を鶴重に改めるようにとのお告げがあった。それ以後、銘に鶴を用いていた。それ以後、新町は鶴重町と呼ばれるようになる。

慶長の清須越以後も、鶴重町を用いていたが、元禄元年(一六八八)将軍綱吉の娘、鶴姫と同じ町名では恐れ多いというので、本重町と改めた。三左衛門の先祖の法名、道本にちなんで付けたものだ。

天保五年(一八三四)、旧の鶴重町に復した。
昭和四十一年、錦三丁目となる。

蒲焼町筋

鶴重町筋の南の横筋である。御園片町より大津町通までの九町。その中には武士町も入りまじっている。この筋の町家はすべて縦町に属している。

蒲焼町

本重町南にあって、西は御園町通から大津町通まで。

『尾張名陽図会』は、蒲焼町の町名由来の諸説を、次のように紹介している。

清須越にあらず。万治年中の図には扇風呂町とあり。(今の風呂屋、昔はかくいふとぞ)ある記に云ふ。飛弾屋町は今のかばやき町なるべしと書けり。ある説に、かんば焼町とて桜の皮を焼きていろいろ細工に用ひる職人の住みし所ゆゑの名なりともいふ。また一名を梶川町と呼ぶは、梶川氏なる人の取立てし町なる由をもいへり。

また一説には、築城手伝いの人夫を相手の茶店を並べ、蒲焼を売っていたからという。

明治四年、本町通と大津町通の間、四丁に蒲焼町を置き、九年御園町通から本町通の五丁を園井町とした。昭和四十一年錦一―三丁目となる。

広小路

蒲焼町筋の南の横筋である。長者町通より久屋町通までをいう。万治三年(一六六〇)の大火により、町家を払って広小路とした。長者町通より西は、南側に悪水落の堀があり、堀切筋とも呼んだ。

御園町通

御園御門通の縦町である。片端より七ツ寺裏門の西までをいう。鶴重町より堀切まで西側それぞれ両側武士町である。

上御園町

御園町筋北端に位置し、南は中御園町に接し、京町筋と杉の町筋の間。

慶長十七年(一七一二)清須の御簾(みす)野町を移し、旧名をとなえた。町名の表記を藩主義直の命により、御園町と改めた。『尾張志』によれば、清須当時、町内には御園神明社があった。

御園神明社は、大神宮の御園であったところから付けられた名前であるので、町名を御園町と名付けたとしている。

『金鱗九十九之塵』には、
一説、御園町の号ハ、清須の城門の外町にありて、此所に御花畑など有し所也。故に御園といふ義を以てミそのと名付たるよし
とある。

また『尾張国地名考』は、御園というのは延喜典薬式にみえる尾張献納の薬種の産地であるからだとしている。諸説があり、いずれとも決しがたい。

町内に在住する甚七という者は、たいへんな親孝行者で、元明四年(一七八四)藩主より褒美として青銅三十貫文を頂戴したという。

貞享三年(一六八六)御園町は、上中下と分かれ、それぞれ町名を変えた。明治四年、中御園町を併合して、上園町と改称した。昭和四十一年の住居表示により、丸の内一丁目、錦一丁目となる。

中御園町

御園町通、杉の町筋より南へ伝馬町までの間。貞享三年(一六八八)上・中・下と御園町の分割とともに、中御園町として独立。

『金鱗九十九之塵』は、その経緯について次のように記す。
中御園町より御願申上候ハ、御園町之儀ハ源敬様御意ニ而被出候バ、御簾野町名向御御園の文字に改替可申候由被仰渡候、今に御園町と申候。其上百年余火災も無御坐候故、何卒唯今の通に被仰付候御願申上候得バ、右之通被聞召、今に中御園町と申候。

藩主義直が御簾野を御園と表記を改めるように命じた。縁起のよい町名で、その後百年余も火災が起っていない。御園という名を、今後も使用させてほしいと役所に願い出て聞きとどけられ、中御園町となったとしている。

町内には、葺師(屋根を葺くことを業とする人)の伝兵衛が居住していた。伝兵衛の先祖は、清須で代々葺師頭をしていた。清須越で名古屋居住後も葺師頭として、お城の御用を始めとして、碁盤割の家々の屋根を葺くことに従事していた。当時、葺師の数は少なく年間八日間は、お城の御用を勤めることが決められていた。碁盤割の町に住居する桶屋と葺師は、碁盤割以外の地で仕事をすることは禁じられていた。

明治四年、上御園町に併合。上園町となる。昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目、錦一丁目となる。

下御園町

御園通の伝馬町筋と本重町筋との間の二丁。上御園町、中御園町とともに、御園町を構成していたが、貞享三年(一六八六)分離独立して下御園町となる。

町内には、名古屋の赤ひげ先生、伊藤玄沢が居住していた。

玄沢は医者のいない遠隔僻地の地まで往診に出かけ、重病人には家方の名薬、養花散を調じて飲ませた。宝暦二年(一七五二)藩主はこの事を聞き、「これからは、毎年薬種料を与える。伊藤家は子孫に至るまで、医者として広く施薬せよ」と仰せになった。玄沢の名は、広く聞こえ、名古屋に流れついた雲水、六法、巡礼までも施薬を乞いに訪れた。伝手を求めて、名古屋はもちろんのこと遠国の人までもが、玄沢の家の門をたたいた。

玄沢の家の屋上には、大きな看板が掲げられていた。看板には、次のように書かれていた。

右はその身至てひんにして病気のせつ、よるべもなく、くすりを用ひ候事も、心にまかせざる人に、近来薬を施し来候、然処此度上よりも薬種料御めぐみ下され候条、いよいよ遠慮なく施薬のぞみの病人参るべく候。そのうち大病あるひは歩行かなはざる病人、近き所へは見まひ可レ申候。遠方にて見せ候事なりがたきものも、くわしくやうだいをきき、やうす次第、薬をあたへ可レ申候。

但、右のとほりのひんじや、せやくをたのみ来り候においては、小児のわづらひ、目のわづらひ、はれ物の類にても、りやうぢいたしつかはし候事。

雲水の出家衆、并くわい国巡礼修行者のたぐひ、これまたせやくいたし候間、療治望の方は御こしあるべく候。

医は仁術であることを、玄沢は身をもって示した人物である。施薬所跡は、御園小の東側の地にあった。玄沢は、小学生に、人間の生き方のもっとも大切なものが何であるかを教えてくれる教材であろう。

明治四年、御園片町と合併し、下園町と改称。昭和四十一年住居表示により錦一丁目となる。

御園片町

『金鱗九十九之塵』は、御園片町の町名由来について、次のように伝えている。

町名由緒之儀、古き帳面段々吟味仕候処、委敷儀相知不申、并老人より聞伝申候ハ、清須越の節より西側諸士屋敷ニ而、東側計町家にて御座候故、御園片町と申候。

この町は御園通、本重町筋と堀切筋(広小路)との間の二丁であるが、西側に武家屋敷があったので、御園片町と呼ぶようになったのが、町名の由来であるとしている。

町内には舅によく孝行をしたというので、藩主より、寛政十年(一七九八)青銅三十貫を褒美として頂戴した美那女がいた。

また書家として名をなした栗木辰助は、神童として幼少より名が高かった。

天保五年(一八三四)の辰助について、『金鱗九十九之塵』は、次のように記している。

此小児ハ為レ不レ学能書、為レ不レ習能ム
読 奇異の童子なり。

御園片町は明治四年、下御園町に併合、下園町と改称。昭和四十一年住居表示により錦一丁目となる。

正万寺町通

御園通の西の縦町である。京町筋から伝馬筋までをいう。

正万寺町

御園町筋西の正万寺町北端の町で、京町筋と杉の町筋との間の二丁。慶長十七年(一六一二)清須の勝鬘寺(三河国額田郡針崎村の勝鬘寺の通い所)の境内地にある商家を名古屋に移住させ勝鬘寺町と名付けた。勝鬘寺の通所も同時に大津町の南に移した。

勝鬘寺に、町名は正万寺の字をあてるについて『名古屋町名由緒記』は、次のように説明をしている。

正万寺町の文字に違ひ有之候は深き来由あり。いにしへ聖徳太子日本国中に、寺四ヶ所御建立被遊て、三州針崎勝鬘寺ハ其一ヶ寺にて、聖徳太子の御幼名ハ、則勝鬘太子と申奉る。其御名を以て寺号となし、勝鬘寺と名付しとかや。其後遙に時代押移り御当家に至り、公義より御朱印成下され、此時此正萬寺を御書添下し給る。去に因て、御朱印の御取扱の節は、此正万寺の文字を用ひ、又寺より取扱の時は勝鬘寺の文字を書す。されば寺号の文字は両様共用ひ書といへり。

町内には芭蕉の高弟杜国が住んでいた。芭蕉の名句

鷹一つ見付てうれしいらご岬

は、空米売買事件によって伊良湖岬に配流になった杜国を、芭蕉が訪ねた時に詠んだ句だ。死罪と決った杜国の刑を流罪としたのは二代藩主の光友である。杜国が尾張の国を祝い「蓬莱や御国のかざりひの木」という句を詠んだことを承知していたので、罪を許したのであった。

明治四年、皆戸町と併合。昭和四十一年の住居表示により丸の 内一丁目となる。

皆戸町

皆戸町を『尾張志』は、次のように紹介している。

杉の町より伝馬町までをいふ。慶長十七年清須よりうつして正万寺町下の切といひしを、貞享四年今の名に改む。ここは戸障子襖等を造る職人町にて、家毎に皆戸を作るゆゑに此名あり。

寛永年間(一六二四?一六四四)、正万寺町下の切の戸数は五二軒であった。その中には清須越の戸商売丸一屋吉右衛門がいた。吉右衛門は武士であったが浪人して戸屋となり、慶長十七年、清須より名古屋に移住した。

昔は建具職は戸屋と呼ばれ、屋号も戸屋で統一されていた。

その伝統は、昭和になっても引きつがれ、オーダー・メイドの商品しか手がけず「建具の皆戸町」と呼ばれた。既製の建具は裏門前町で多量に売られていた。「建具の皆戸町」の誉り高い伝統は、厳しい徒弟制度によってまもられてきた。十二、三歳頃より親方について修行し、親方の許可を得て独立し、店をかまえることができた。戦前は町内の四分の三までが建具職であったが、現在は一軒もない。

明治四年、正万寺町と合併。昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目、錦一丁目となる。

上材木町

上材木町は、正万寺町筋の西にある南北道路の杉の町筋より伝馬町筋の間。

『名古屋町名由緒記』は、

当町は清須越に不非。慶長十七壬子歳、京都辺より数多引越来り、家並建続きて、則町名も京材木町と号せし由。其後元和年中町内一統材木の商家故、公聴願ひ上材木町と改号す。
と町名の由来を記している。

町内には堀川の舟運を利用して、木曽の桧などの良材が運ばれてきた。藩では上材木町、下材木町、元材木町の三ヵ町に居住する業者に限り、材木屋の称号を許し、白木屋、板屋などという他町の同業者と区別した。

また、この町だけに許可されたものに盆中灯籠がある。毎年七月十三日ないしは二十日、あるいは盆中だけ、大きな灯籠を、家毎に切紙灯籠をともすことが許された。ここは昔、墓所があった地で、盆に聖霊をむかえるために灯籠をかかげたのが始まりであるという。

堀川に下る坂の上に白山神社が鎮座している。白山神社には、秀吉にかかわる伝説が残っている。豊臣秀吉が朝鮮戦役のとき、神社の楠の大木で、兵を乗せ朝鮮に渡る船を造ろうとした。材木人夫が楠に斧を入れようとすると負傷をするという異変が相次いだ。その夜の夢枕に出てきた童子のお告げにより、秀吉は船を造るのを断念し、仏像を造り、寄進をした。

祭神は菊理媛命、創建年月日は不詳。かつての境内は一一三坪あり、泥江縣神社の境域に続く末社。例祭は八月十五日で、泥江縣神社の御旅所である。

材木の町、上材木町には、材木問屋川万屋加藤善右衛門、天満屋河村九兵衛が知られている。九兵衛は曲全斎と号し、曲全流の始祖である茶道家である。

明治になり、材木町と改称。現在は丸の内一丁目、錦一丁目に属する。

木挽町通

堀川の東岸を通る縦町である。片端より堀切筋までをいう。

木挽町

堀川の東岸、片端筋より堀切筋までを、木挽町通という。その片端筋より京町までの間が木挽町である。この町は万治三年(一六六〇)まで上畠町西の切に属していたが、寛文元年(一六六一)より独立し、木挽町と改名した。

名古屋城築城の時、ここに木挽小屋が造られ木挽職の者が居住していたので、町名とした。

木挽とは、木材を大鋸で挽く人、木こりのことをいう。

宝永六年(一七〇九)十一月、片端角より南へ家数四軒が御用として藩に召し上げられ、小舟町に替地が与えられた。正徳四年(一七一四)に返還され、再び町地にもどった。木挽町は家数は十六軒、清須越の町ではない。

明治四年、元材木町、両蔵屋敷、下材木町、葭町を併合、木挽町とする。昭和四十一年、住居表示により丸の内一丁目となる。

元材木町

木挽町通、京町筋より魚の棚筋の間。

『名古屋府城志』には、この町は清須越であるので、清須材木町と名付けたとある。『名古屋町名由緒記』は、清須越の町ではないとしている。寛文五年(一六六五)清須材木町という町名は長すぎるというので、北材木町と改名した。貞享三年(一六八六)、北材木町の北の字は「にぐる」と読み、敗北を意味し縁起が悪いというので、元材木町と改めた。

元材木町、魚の棚筋より、杉の町までの間を両蔵屋敷と呼んだ。成瀬隼人正、志水甲斐守の屋敷が左右にあったからだ。元禄十三年(一七〇〇)五月、両蔵屋敷は火災により全焼。その跡に町家が建てられ、町並となった。

町内には豪商犬山屋神戸文左衛門が在住していた。神戸家には秘蔵の花活の籠かつら川が伝わっていた。
花活が神戸家に伝わった経緯は次の通りだ。

千利久が京の桂川を散歩していた時のことだ。釣人が腰につるしていた魚籠を花活にしたいと思い、男から籠を買取った。

花活の籠は、利久から豊臣秀吉に渡り、さらに吉良上野介の秘蔵するところとなった。浅野浪士が吉良家に討ち入った時、上野介の居間にあった籠に槍をつきさし、吉良の似せ首として泉岳寺まで持ち帰った。
その時の槍疵が籠に残っていたという。

その後、神戸家にこの花活は伝わった。価は三千金であるという。
元材木町は明治四年、木挽町に合併された。

昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目となる。

下材木町

木挽町通、中橋より南へ伝馬橋までの間。

材木商天満屋九兵衛、川方屋弥兵衛が、慶長年間、清須より名古屋に移住し、下材木町に住居をかまえた。二人は上材木町に対し、下材木町と称した。

中橋の東側の川岸で、植木、石燈籠、山海の珍石を商う商家白木屋の店は、あたかも深山のような趣を呈していた。春ともなれば、桃や桜が咲き乱れた。秋は紅葉、冬は雪の眺めもすばらしく、名古屋の町中にある景色とは思えないほどで、多くの見物人で賑わった。

豪商、材木屋鈴木惣兵衛は元禄十三年(一七〇〇)知多郡寺本町(現知多市)より移住し、元材木町で材木商を始めた。二代目の時に下材木町に移った。幕末には御用達商人十人衆の一員に数えられるほどの豪商であった。

戦後多い時には六十余軒もあった材木商も年々姿を消し、現在は数えるほどしかない。「上ものは木挽町にかぎる」と言われた良質の木材を商っていた材木商も姿を消し、両側に立てかけてあった材木、それを運ぶトロッコも、堀川端から影をひそめてしまった。

明治四年、下材木町は木挽町に併合。昭和四十一年の住居表示により丸の内一丁目、錦一丁目となる。

葭町

木挽町通の伝馬町筋と堀切筋の納屋橋との間の三丁。慶長十六年(一六一一)清須の東葭町がこの地に移住し、旧号を称えた。

『尾張志』には、町名由来について「慶長十六年清須より移りて東葭町といひしを、寛文年中東の字を畧けり。堀川の岸の葭を此町より刈て売けるゆゑしか名けしとそ」と記している。

清須で、すでに東葭町と呼ばれていた町が、名古屋移住後に葭を刈っていたので葭町と名付けられたという説は、すこし無理があるようだ。清須時代、すでに葭山を与えられ、葭、かやをこの町で売買していたのが町名の由来とする『尾張城南陌名由緒』の説の方が正しいであろう。

承応二年(一六五三)本重町筋河岸に船番所が設けられたが、火災のため焼失。享保九年(一七二四)、天王崎に船番所は移った。

葭町は明治四年木挽町と合併し、木挽町と町名変更。昭和四十一年住居表示により錦一丁目となる。

伏見町通

桑名町の西の縦町である。片端より清安寺門前の西までをいう。堀切(広小路)より南は武士町である。

伏見町

『名古屋府城志』は、伏見町を、次のように紹介している。

古山城国伏見の者移住此地、因以為名。府尹志に、此町草創の年月不詳、初伏見六兵衛と云者住居せしに仍て名とすと云。

伏見町は清須越の町ではない。いつごろ、この町ができあがったかは不明である。開府以前から伏見屋六兵衛という商人がこの町に住んでいた。おいおい伏見から移住した人がこの町に住みつき、いつしか町家ができあがり、伏見町と呼ばれるようになった。
町は伏見町筋北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間の二丁をいう。

伏見町は商家と医者の町であった。商家として有名なのは茶碗屋源左衛門、別号を玉香園米亭という人物だ。庭には高さ九尺(約三メートル)、幅は二間(約三・六メートル)という白ボタンの大木があり、初夏には二百輪をこえる花を咲かせた。

みどりなる葉に包まれて白ぼたん

寛政年間(一七八九?一八〇一)に、松平掃部頭が詠んだ句だ。
医者では石川立安が有名だ。明国からの帰化人、張振甫も、この町に一戸を構えていた。

変った人物ではスゴ六の名人、三河屋和助。サイコロを自由自在にふりまわし、自分の思う通りの目を出すことができたという。

幅三間の格子窓が突きでていた町が伏見町。その後、第二次世界大戦とともに建物疎開が始まり、五十メートル道路の建設が始まった。

空襲とともに焼尽した伏見町は、かつての面影はどこにも見られない町へと変わりはててしまった。

明治四年、淀町を併合。昭和四十一年丸の内一・二丁目、錦一・二丁目となる。

淀町

伏見町通、杉の町筋と伝馬町筋との間の二丁。清須越の町ではなく、遷府後に開かれた町である。町が開かれた当初は伏見町下の切、あるいは伏見町三丁目と呼ばれていた。

貞享三年(一六八六)伏見と淀の縁をもって淀町と命名された。

明治四年、伏見町に併合。昭和四十一年丸の内一・二丁目となる。

伊倉町

伏見町通、伝馬町筋と本重町筋との間の二丁をさす。

清須越の町で、清須では鯏浦(うぐいうら)町と呼ばれていた。うぐいうらは言いにくいという理由で、承応二年(一六五三)三月に、伊倉町と改称。
鯏浦町の由来は、はっきりとはしていない。海東郡にある村名で、その出身者が清須に移り住んでできた町であるともいう。

町内には延命院がある。真言宗長野万徳寺派の寺で、清須北市場村にあった。開基は不詳。福島正則の祈願所であるという。

伊倉町は明治四年、米倉町と合併。昭和十一年広小路通、四十一年錦一・二丁目となる。

米倉町

伏見町通、本重町筋と広小路通との間の二丁をさす。北は伊倉町、南は武家屋敷で碁盤割を離れる。

清須越の町で、当初は下鯏浦町と呼んでいた。承応二年(一六五三)伊倉町下の切と改称し、同町の上の切と併せて支配した。承応三年、下伊倉町として分離。貞享三年(一六八六)伊倉町とまぎらわしいので、藩に願い出て米倉町と改称。

明治四年、伊倉町と合併。昭和十一年広小路通、四十一年錦 一・二丁目となる。

桑名町通

片端から花屋町に至る南北道路である。

桑名町

桑名町通の北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間の二丁。南は桶屋町に接する。

慶長年間、清須の北市場にあった桑名町を移した桑名町は、清須越の町である。『尾張志』は、「長島・桑名の両町はもと伊勢の国より清須へ移しし町なるべし」と述べている。

桑名町には江戸時代は政治の、明治時代は経済の中枢をになう建物があった。江戸時代、長島町の片端筋東角にあった国奉行役所跡が天明二年に焼失した。その後、桑名町、片端筋東角に新しく役所は建てかえられた。

明治二十三年、新栄町から名古屋商工会議所が桑名町に移ってきた。

桑名町には多くの文人が居住していた。俳人では芭蕉の高弟、山本荷兮、越智越人。漢詩人では森春涛、槐南の親子が住居をかまえていた。

明治四年、桶屋町の一部を併合。昭和四十一年には丸の内二丁目となる。

西鍛冶町

桑名町通の桜の町筋から鶴重町間の、清須越の町である。清須越の折、大工や桶師、葺師などの鍛冶たちがこの町に居住したので、西鍛冶町と名付けられた。鍛冶町とも呼んでいたが、東の関鍛冶町とまぎらわしいので西の字を添えて区別をした。
町の南、袋町筋と鶴重町との間の東側は、もと武家屋敷であったのを享保十三年(一七二八)町家ができた。

昔、この辺は万松寺の境内であった。町内の傘屋亀二郎の屋敷の裏にある井戸は、万松寺の井戸であった。

西鍛冶町と袋町との辻に塚があった。平安時代の陰陽師、安倍晴明が、この地で亡くなった秘書を葬った塚である。晴明は、塚に護符を埋め、この地に火事が起らない呪いをした。そのせいか昔より、この地には火事が起らないという。

西鍛冶町は明治四年、桶屋町に合併された。昭和四十一年には錦二丁目となる。

桶屋町

桑名町の南、西鍛冶町の北に位置し、桑名町通の杉の町筋と桜の町筋との間の一丁。

慶長年間、清須の桶屋町が名古屋に移住し、旧号を用い桶屋町と称した。町名の由来は清須時代、町内に家持桶師孫左衛門という者が居住していたからである。

明治四年、一部を桑名町に編入。同時に西鍛冶町と、その南に続く武家屋敷地(堀切筋まで)を合併。昭和十一年広小路通と改称。四十一年錦二丁目となる。

長島町通

京町通から杉の町までをいう。

長島町

片端から三ツ蔵通までの南北道路長島町通の北端の町で、南は島田町に接する。京町筋と杉の町筋との二丁をさす。

慶長年間の清須越の町で、町名は清須での旧号を用いた。

伊勢長島と清須との関係は深く、多くの人が長島から清須に移り住んでいる。長島から清須に移った寺院もみられる。それらの人々が住んでいた町なので、長島町といったのであろうか。判然としていない。

長島町には藩校明倫堂がある。明倫堂は天明二年(一七八二)十代藩主宗睦が尾張藩に学館がないのをなげき、この町に明倫堂を建設した。翌年、総裁に細井平洲を迎え開校した。明倫堂では、武士ばかりではなく町人、百姓にも自由に聴講を許した。

明倫堂は、明治四年の廃藩置県とともに廃校となった。明治八年、明倫堂の跡地に東照宮が移ってくる。東照宮のまつり、名古屋まつりは市中を熱気につつむ、盛大なものであった。

島田町

『尾張志』は島田町を、次のように紹介している。

杉の町より伝馬町までをいふ。慶長十六年清須よりうつして下町といひしを、貞享元年十一月、今の名に改たるは北に長島町、南に田町ある故其文字を連称せし也。

清須や名古屋近辺から人々が移り住んでできたのが島田町。清須から移住してきたのは二戸だけであったので、正確には清須越の町とはいえない。町並ができあがったのも遅く、元和年間(一六一五?二四)頃である。

貞享元年(一六八四)長島町と田町の中間にあるので、島田町と名づけたと『尾張志』は記している。

明治四年、一丁目は長島町に分離、田町と合併した。
大正十二年には、一部が新柳町となる。昭和十一年には広小路通、四十一年錦二丁目となる。

田町

長島町通の伝馬町筋と本重町筋にはさまれた二丁。ほかに本重町筋の西へ半丁と、享保十四年(一七二九)開発の中道を支配する。

清須越の町で、清須では野田町と称していたが、移住後は野の字を省いて田町とした。

清須越の時期は、はっきりしない。

町内には、坪内逍遥が、自分を育ててくれた学校であると言った貸本屋大惣がある。大惣を開いた大野屋惣八は知多郡大野の出身。明和四年(一七六七)、この地で貸本屋を開業した。この店は全国に名を知られた。

多くの武士、町人が大惣ののれんをくぐった。名古屋を訪れた滝沢馬琴は、大惣の広告文を依頼され、次のような文を書いて与えた。

古人琴書酒の三を以って友とす。しかれども酒は下戸にめいわくさせ、琴はゆるしに黄金をしてやらる。只書のみ貴賤となく、友とするに堪えたりといへども、又書籍にも往々得がたきありて、高価に苦しむもあり。夫れ一日雇の女房後腹をやまず、十日切りの貸本紙魚のわずらひなし。尤もかりて損のゆかざるもの、ゆふ立の庇雨の日のかし本

大惣が倒産後、貴重な書籍は京都、東京に散逸してしまった。
田町は明治四年、島田町に併合。昭和四十一年には錦二丁目となる。

長者町通

本町通の西の縦町で片端より花屋町までをいう。そのうち広小路以南は武士町である。

上長者町

『尾張名陽図会』は「長者町通」について次のように記している。

慶長十六年、清須長者町といふ所より引きうつりなり。この地にうつりても旧名を呼ぶとぞ。一説に、清須の長者町といへるには、金持の集り住みし故の名なりといふ。この長者町は京町通より桜之町通までをいふ。ここを上長者町と呼ぶ。清須の本町より一丁程西の田面にこの名ある由。

町名由来の一説に、明治中期、上長者町三丁目付近に服部権右衛門という豪商がいた。この長者が町の象徴となり、長者町と町の名を呼ぶようになった、という説がある。

長者町は清須越の町である。名古屋移住後も、清須当時の町名をそのまま用いたので、明治になってから長者町という町名ができたという説は、明らかな誤りである。

それにしても長者町とは縁起のよい町名だ。明治四年、小桜町を併合。昭和四十一年には丸の内二丁目という何の変哲もない町名へ変更する。住民にとっては痛恨の思いであろう。

町内には那古野神社が鎮座している。那古野神社は築城以前には三の丸の地にあった。亀尾天王社、郭内天皇、三の丸天王とも呼ばれていた。

名古屋城築城にあたり、障害になるため若宮八幡社と亀尾天王社のいずれかを移転させる必要が生じた。家康はくじを引かせ、敗けた若宮八幡社を末広町に移転させた。明治維新のさい、須佐之男社と改め、明治九年現在地へと移ってきた。明治三十二年那古野神社と改称。

長者町を有名にしたのは、上長者町かいわいを根城とする盛栄連の姐さんたちだ。絃歌と嬌声のさんざめく巷へとスタートしたのは文化文政年間(一八〇四?一八三〇)で天保の頃が第一期黄金時代、明治六年、盛栄連が結成されると、その名声はいよいよ高く、天下の名士は千客万来、長者町通だけでも人力車詰所が五ヵ所もできた。芸者置屋は三十四軒八十人(大正三年調べ)、盛栄連のよき時代であった。

小桜町

清須越の町で、慶長年間、上長者町と一緒に移住してきた。当初は長者町四丁目と呼んでいたが、貞享三年(一六八六)町内の天神社に桜の大樹があるため小桜町と改称。

天神社は、織田信秀が京都北野天満宮から菅原道真の木像を持ち帰り、その尊像を祭るため万松寺の境内に建てたもの。万松寺は開府の際、大須に移転したが、天満宮はそのまま残った。

万治三年(一六六〇)一月十四日の大火で、天神社は焼失、桜の木も枯死してしまった。その焼跡に銭湯ができて、桜風呂といった。銭湯が廃業になった後、その跡地に桜屋という屋号の和菓子屋ができた。

桜とともに天満宮の名物は鐘楼堂である。万治四年三月、尾張藩の釜役、水野太郎左衛門が精根をこめてつくりあげた大鐘が天神の境内につるされた。明治八年まで名古屋の街で万松寺の鐘は、名古屋の人々に時を知らせつづけた。

町内には、藩に出入りすることを許された畳屋四軒のうちの一つ、畳徳があった。畳徳は明治に入ってからも、宮内省の指定店として、その古いのれんを誉った。

同じ町内に竹中藤五郎が住居をかまえていた。彼は伝統的な工法の建築に長じていた。弟の藤右衛門は、近代洋風建築を志して神戸に出て独力で竹中工務店の基盤を築き、日本を代表する大手会社に成長させた。

昭和十二年、名古屋駅に通じる五十メートルの大道路となった桜通には、プラタナス、公孫樹が植えられ、かつての桜通の面影は通りから消えてしまった。

明治四年、小桜町は上長者町に編入。

桜町は明治四年、桜の町筋に新たに成立した町。桜の町筋の木挽町通から久屋通に至る町域のうち、本町通から伊勢町通までの三町が独立したもの。桜の町ともいった。

菅原町も明治四年に、新しく成立した町。桜の町筋の木挽町通から久屋町通に至る町域のうち、伏見町通から本町通までの四町が独立したもの。

以上三つの町の町名由来はいずれも桜天神社にちなんだものである。昭和四十一年住居表示により小桜町は丸の内二丁目、錦二丁目、桜町は丸の内三丁目、錦三丁目、菅原町は丸の内二丁目、錦二丁目となる。

八百屋町

長者町通のうち、鶴重町筋から横三ツ蔵筋までの間をいう。そのうち広小路より南、入江町の西側と南は両側武家屋敷であった。
清須越の町ではなく、名古屋開府以後の町屋。町名は、野菜を商う人々が多く住んでいたところから八百屋町と呼ばれた。

明治四年、下長者町に併合。昭和四十一年住居表示により錦二丁目、栄二丁目となる。

下長者町

伝馬町筋と本重町筋との間の二丁。清須越の町であるが移転年月日は不詳。『那古野府城志』によれば、上長者町に対して、名古屋城から離れているため下の名が付け加わったという。
明治四年八百屋町を併合。昭和十一年広小路通、昭和四十一年錦二丁目となる。

下長者町は繊維問屋の町だ。幕末、いとう呉服店、十一屋など大店の呉服問屋の番頭が本町の裏筋にあたる二等地の下長者町に店をかまえる。あるいは西万町の古着屋が、店の規模を拡大するために進出する。
これらの店は、大店に対抗するため、現金取引の廉価販売を行なった。
この手法が大あたりし、繊維問屋長者町の名は全国にとどろいていった。

第二次世界大戦後、焼け跡の長者町通に、いち早く数軒の繊維問屋がバラック建ての店を建て商売を始める。商売のメッカ本町通は、米軍のジープがわが物顔に横行し、ひっそりと静まりかえっている。長者町通が本町通に変わり、活気のあふれた問屋街へと変っていった。おりからの繊維不況とあいまって、繊維問屋は狭い長者町通に九十五軒が軒を並べた。荷を積み下ろしする車、買物におとずれる客で、通りはいつも賑わっていた。

本町通

名古屋城下の中央の道で、熱田から大手御門に至る大道である。

本町

名古屋と熱田とをつなぐ本町通は、多くの人々がこの道を往来し、名古屋の歴史を刻み、名古屋の文化を育ててきた通りだ。文字通り名古屋のメイン・ストリートであった。

その本町通の京町筋より杉の町筋までの二町の間が本町であった。慶長十六年(一六一一)清須越の町で、町名は清須で用いていた旧号をそのまま用いた。

通りの名、本町通、町の名、本町は全国の至る町でみられる。その町の幹線道路であり、中心のもっとも賑やかな町である。名古屋の本町通も、他の通りは二間・三間幅であるが、本町通は五間幅(約九メートル)であった。

名古屋商人は、「本町商人」の名で代表されるように、本町通 の両側には大店が軒をならべていた。

唐木屋(紫檀・白檀など中国渡来の木材をあつかう)の旧家としては、花井右衛門と花井勘右衛門。右衛門の先祖は鳴海に住んでいたが、その屋敷に名水のわき出る井戸があった。井筒の上に神輿を飾り、井戸を大明神と敬めていた。井戸から桔梗の花が咲き始めた。鳴海城主の安原備中守は、この奇端を賞でて、井戸を花井と名付けられた。右衛門は苗字を花井と改正するように命じられ、井筒の内に桔梗を付ける紋所を使用するように指示された。

安永元年(一七七二)花井勘右衛門の家から妙なる香りがただよい始めた。庭に放置してあった臼を割り、薪として燃したのが、町中に香っているのであった。この臼は、赤栴檀の銘木であった。花井臼と名づけられ、香の銘木として珍重された。

藩祖義直が大坂の陣に出陣するにあたり、陣羽織を作ったという革屋の市佐衛門。唐木屋の花井家とともに市佐衛門は清須越の商人である。菓子屋の鶴屋池田久七、桔梗屋の池田又七は、駿河越の商人である。呉服商松前屋岡田小八郎は近江八幡から名古屋に進出した商人である。

各地から、名古屋で一旗あげたいと名だたる商人が本町を目ざして進出してきた。

いざ出でむ雪見に転ぶところまで

の句を芭蕉が詠んだのは、名古屋書店の草わけである風月堂孫助書店。この句は貞享年間(一六八四?一六八八)名古屋に来ていた芭蕉が、何か珍しい書籍はないかと風月堂を訪れ、おりから雪が降ってきたので詠んだ句。

明治五年、福井町、富田町を併合。昭和四年、御幸本町通と改称。昭和四十一年、丸の内二丁目、三丁目となる。

福井町

福井町は本町通の杉の町筋から桜の町筋までの一丁。慶長十六年(一六一一)清須の本町を移し、上本町と呼んでいた。万治元年(一六五八)本町三丁目と改称。貞享三年(一六八六)福井町となる。明治五年(一八七三)富田町とともに本町に併合された。昭和四十一年丸の内二・三丁目となる。

町名由来は、貞享三年「町内之寿を取申」の意で名付けたという。

町内の住人に町方役所用達井桁屋鈴木久助がいる。二代目の鈴木孫十郎は、榊原康政の家臣で長久手の戦いに康政に従い出陣した。その後眼をわずらったので、武士をやめ清須で百姓をしていた。清須越の時、福井町に移住してきた。上使が名古屋に来た時は井桁屋に宿泊し、御馳走役を勤めた。

整腸薬五竜丹本舗井桁屋徳兵衛も、この町の住人であった。

富田町

桜の町より伝馬町までの間。慶長十六年(一六一一)清須越の町で、移住直後は上本町、万治元年(一六五八)よりは本町四丁目と呼んでいたが、貞享三年(一六八六)三月、富田町と改称した。

清須時代には、刀鍛冶兼常が住んでいたので兼常町と称していた。

明治五年、福井町とともに本町に併合された。昭和四十一年錦二・三丁目となる。

町内には、府下第一の揚看板をかかげた呉服屋大丸屋があった。大丸屋の名古屋進出については、次のようないきさつがあった。

山城国伏見から、彦右衛門という商人が名古屋にやって来た。富田町経師弥右衛門を尋ね、店を借り呉服屋を開きたいと頼んだ。呉服屋を開店したところ、たいそう繁盛した。周囲の店を買求め、店を拡張していった。彦右衛門に店を売り渡した大鶴屋が「なにとぞ私の家の名前の一字をあなたの店の名前に加へてほしい」と依頼した。大鶴の大の字を加え、店の名を大丸屋とした。

大丸屋をつぶそうといろいろなたくらみを杉の町の商家が起こした。地元商人の排他的な嫌がらせにもかかわらず、大丸屋はますます繁盛した。

玉屋町

伝馬町から蒲焼町までの間をいう。慶長十六年、清須より移住し、下本町と呼んでいた。貞享四年(一六八七?)玉屋町と改称。

町名は「宝玉」にちなんで付けられたものだ。

明治四年、鉄砲町の一丁目を併合。昭和四十一年錦二・三丁目となる。

町内には真宗大谷派の聞安寺がある。この寺は伊勢長島の郷士杉崎正応が創建した寺である。蓮如に帰依して法閑と称していた。正応寺と号し清須へ移転する。寛永三年(一六二六)六世浄祐の時、現在地に移り、聞安寺と改称した。境内には表千家の茶人吉田紹和平・紹敬の記念碑がある。

町内には滝沢馬琴が『覇旅漫録』の中で「呉服屋は水口屋繁盛なり」と記した呉服屋の水口屋。丸栄の前身にあたる十一屋小出庄兵衛家があった。本居宣長の『古事記伝』、葛飾北斎の『北斎漫画』を出版した永楽屋東四郎が居住していた。中風薬「烏犀丹」で有名な小宮山宗法も、この町の住人である。

町内には札の辻があり、交通の要路にあたっていた。宿屋が数軒を連ね、旅人の宿泊を待っていた。

玉屋町四丁目と下長者町との間を旅籠町あるいは天蓋町と呼んだ。遊女屋、居酒屋が軒を並べ、遊女を置く店もあった。
扇風呂という有名な銭湯もあった。

承応三年(一六五四)日蓮宗の僧三人がこの地で遊んでいて、酔ってけんかをし、殺人事件を起した。僧三人は市中引きまわしの上、磔にされた。

万治三年(一六六〇)の大火のため町は焼失。歓楽街もすっかり影をひそめてしまった。

鉄砲町

本町通、蒲焼町より入江町までの二丁。

慶長年間の清須越の町で、清須の町で鉄砲を製造する職人が住んでいたので、鉄砲町と名づけられた。その後、鉄砲師たちは御園町大下に移転した。鉄砲師たちのいなくなった鉄砲町は、職人の町として栄えてゆく。

明治四年広小路以北を玉屋町に分割。昭和四十一年、住居表示により広小路以北の地は錦二・三丁目、広小路以南の鉄砲町は栄二・三丁目となる。

本町通が広小路と接する北側に木造三階建ての建物が偉容を誇っていた。この建物は秤屋の守随商店であった。尾張・美濃二国の秤は、守随家が製作した秤以外は使用することが許されなかった。

東西の通りを代表する道路の広小路、南北の通りを代表する道路の本町、昔から名古屋の一等地として有力な商店が店をかまえていた。

七間町通

本町通の東にある縦町である。片端より花屋町までをいう。

上七間町

片端より花屋町に至る七間町通の北端にある町。京町筋から杉の町筋までの間の二丁をいう。清須越の町で、清須時代、裕福な家七軒が三階建ての家を建てたところから七間町と呼ばれた。

慶長十六年(一六一一)清須越当初、上七間町は上の切といい、下七間町は下の切と呼ばれた。

名古屋最大のまつり、東照宮まつりの花形は橋弁慶車である。五条橋の上で弁慶がなぎなたを振りまわし、牛若を相手に戦うからくりに、老いも若きも熱狂した。

町内には宝飯郡小坂井村出身の紺屋新左衛門が住んでいた。大坂冬の陣では、徳川家康に従い、その軍用旗やまといを作った。彼はその功により、駿府両替町に町屋敷を拝領した。義直が名古屋城に入るとともに、彼も義直に従い名古屋に来て、紺屋を開いた。俗にいう駿河越の商人である。
明治四年、下七間町と合併し、七間町となる。昭和四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。

下七間町

七間町通の上七間町の南、杉の町から伝馬町までをいう。

名古屋に移住した時期については、上七間町と同じ慶長十六年、あるいは慶長十九年以降移ってきたという両説があるが、はっきりしない。上七間町と下七間町の分離は万治元年(一六五九)という。

町内には、大八車の発明者、槍師三輪小右衛門が住んでいた。初代藩主義直が二条城の普請を家康から命じられた時、小右衛門は大八車を発見して工事に役立てた。工事は大八車のために順調に進んだ。
喜んだ義直は、槍の用は小右衛門にまかすという特権を与えた。

明治四年、七間町に併合。昭和四十一年、丸の内三丁目、錦三丁目となる。

富沢町

富沢町は伝馬町筋の南、呉服町筋の西、広小路の北、本町筋の東に位置し、一丁目から四丁目まである。慶長十六年(一六一一)清須より移り、清須の馬持どもが住んでいたので、伝馬町七軒町と呼んでいた。その後、伝馬頭の支配を離れ、町代役を勤めることになった。

貞享三年(一六八六)松本町と町名を変更。

宝永五年(一七〇八)、藩主綱誠の娘、磯姫が松姫と名を改めたので、松姫の名を避け、町名を改めることになった。材木屋の多いところから東材木町にしたいと願い出たが許されなかった。藩の意向に従い、富沢町と町名を改めた。

伝馬町筋と袋町筋との中程に、石を数多く並べた溝川があった。昔、ここに大きな杁があった後である。

商人の町、富沢町が有数の歓楽街にと変ったのは、明治時代になってからのこと。明治二十九年、東雲連という芸者置屋ができる。大正時代には中検番と合併、多くの姐さんたちが座敷をかけまわっていた。
戦後は、焼跡にキャバレーができ、芸者置屋にとって変わるようになる。今も、富沢町は、ネオンのまたたく不夜城である。

昭和四十一年、錦三丁目となる。

呉服町通

七間町通の東の縦町である。片端より花屋町までをいう。ただし広小路より南は武士町である。

呉服町

呉服町通の北端に位置し、京町筋から杉の町筋までの二丁をさす。慶長年間、清須越の町で、清須当時の町名をそのまま用いた。それに対し『尾張志』は、清須当時の旧名を用いたのは誤りであると、次のように述べている。

慶長年中清須より移して竹屋町といひしを元禄以後今の名にあらたむ。張州府志に清須より移し、旧によりて名とすとあるは誤あるべし。今清須村の田畠の字に呉服町と呼る地はなく竹屋町といふ旧名は残れり。

町内は、医学者であり、植物学者伊藤圭介が住んでいた。
明治四年、常盤町を併合。四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。

常盤町

呉服町の南、針屋町の北にある町で、杉の町筋より伝馬町までの二丁をさす。

清須越の町である。清須では竹を商う人が多く住んでいたので、名古屋に移った後も竹屋町と呼ばれた。元禄年間(一六八八?一七〇四)名古屋の市中に、しばしば火災が起った。火事恐怖症の住民はさまざまな説をたてる。「タケヤ」をさかさまに読めば「ヤケタ」になる。縁起が悪いというので、元禄十四年(一七一六)藩に願い出て常盤町と改名した。

町内には尾張藩最初のお時計師津田助左衛門が住んでいた。助左衛門は安芸の浪人で、京都にいる時、家康の時計を修理した。家康の時計をモデルとして、オランダ式の時計製造を始める。

六十石で尾張藩につかえた助左衛門は、名古屋の時計産業の礎を築いた人といえよう。

針屋町

呉服町通、伝馬町筋から鶴重町筋まで。慶長年間、清須より移った清須越の町で、はじめ清須時代の旧称針屋小路と称していた。

家数四十四戸、針屋町に住んでいた清須越の住人に畳屋弥一郎がいた。

明治四年、笹屋町を併合。昭和四十一年錦三丁目、栄三丁目となる。

笹屋町

本重町筋の半町上より広小路の二丁半をさす。清須朝日村の八重屋敷より慶長年間、移って八重町という。元禄十年(一六九七)五月、将軍綱吉の養女八重姫の名を避けて笹屋町と改名した。この町の上の町が竹屋町というので、その縁により笹屋町と名づけた。

明治四年、針屋町に合併。昭和四十一年錦三丁目となる。

栄の百メートル道路の西側に、名古屋市教育館がある。この教育館は八重小学校の跡地に建てられたものだ。小学校の名前は、八重町から付けられたものである。

伊勢町通

呉服町通の東にある縦町である。片端より花屋町までをいう。そのうち広小路より南は武士町である。

伊勢町

『尾張名陽図会』は、伊勢町について、次のように紹介している。

京町通より杉之町通までをいふ。清須にありし時は神明町北松原の辺に、伊勢町といふ所あり。その地よりここにうつりしといふ。しかれども清須より引きうつりし年月詳かならず。また町の名義しらずといふ。ある云ふ、神明町なれば国の名に見立てて伊勢町と呼ぶとも云へり。

清須越の町で、清須当時の旧名を名古屋移住後も称していたと述べている。

町内には、吉沢検校が住んでいた。検校は生田流箏曲家で純箏曲を多く作曲した。代表作には「春の曲」「千鳥の曲」などがある。

明治四年練屋町と合併。昭和四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。

練屋町

練屋町は杉の町筋より伝馬町筋までの間である。慶長年間、清須より移住してきた清須越の町だ。昔から、この町には練屋、絹屋などが住んでいたのが町名の由来である。

皮などをなめす練屋ではなく、練飴屋が居住していたからだという説もある。

明治四年、一部を桑名町に編入。西鍛冶町とその南に続く武家屋敷北(広小路まで)を合併。昭和十一年広小路通、昭和四十一年錦一丁目となる。

大津町通

伊勢町通の東の縦町である。片端より清浄寺門前まで。そのうち鶴重町筋より広小路までは東側、それより南は両側武士町である。

大津町

山城の国大津の四郎左衛門という男が、織田の繁栄ぶりを聞いて清須にやって来て住居をかまえた。四郎左衛門が住んでいた町は、いつしか大津町と名付けられた。清須越で名古屋に居住した後も、旧号をそのまま用い大津町とした。清須移住当時は、笹が一面に生い茂っている笹山であった。

大津町は伊勢町通東の大津町通の北端に位置し、京町筋と杉の町筋との間をいう。

この町の隣は、薬種問屋が数多くある関係で、医者が多く住んでいた。中でも外科医名束宗之、産婦人科医奈倉道伯は有名。大正時代には、外科医として著名な好生館病院の北川乙次郎、佐藤勤也が大津町に居をかまえた。

明治四年、瀬戸物町と朝日町の一部を合併。昭和四十一年丸の内三丁目、錦三丁目となる。

瀬戸物町

瀬戸物町は元和二年(一六一六)清須から移住してきた町である。移住当時は笹山であったという。町名の由来は天正年間(一五七三?一五九二)清須で、瀬戸物屋が多く住んでいたからだ。

瀬戸物町は、大津町通、杉の町筋と桜の町筋との一丁と杉の町筋の東西をいう。

明治四年、大津町に併合。昭和四十一年、丸の内三丁目となる。

朝日町

瀬戸物町の南、山田町の北にあり、桜の町筋と本重町筋との間の三丁と袋町筋の東の区域を含む。清須越の町で、元和三年(一六一七)移住してきた。清須の朝日村出町から移住してきたので、旧号を用いて町名とした。移転当時は笹山であったという。

明治四年、朝日町一丁目を大津町に合離し、山田町と合併。昭和四十一年錦三丁目となる。

山田町

『尾張名陽図会』は、山田町を次のように紹介している。

本重町より広小路までをいふ。この町は清須越にはあらず。往 古は前津村の地にして、山田畠の跡なりし故町の名とす。慶長十年、清須より御家中ここに引越し屋敷小路となる。しかるに万治三年の大火に焼失せしかば、その跡町家となる。この辺いまだ町並にならざる頃は、笹茂りし野にてありしといふ。

万治三年(一六六〇)の大火で、武家屋敷が焼失。東新町、西 新町と移ってゆく。焼跡には広小路の拡幅で立退かされた町人が移ってくる。山田畑のあとの意味で、山田町と称した。

山田町一丁目に、栄(さこ)村(現在の中村区栄生町)の百姓が出店、商売をした関係で栄町の名称が生じた。

山田町は、本重町筋と広小路との間の二丁。明治四年、朝日町と併合。昭和四十一年錦三丁目となる。

鍛冶屋町通

大津町通の東の縦町である。片端より南前津田面まで。そのうち鶴重町より南は武家屋敷である。

関鍛冶町

京町筋より南へ杉の町までをいう。

美濃の国関の鍛冶職たちが、清須へ引越し移住して来ている所なので、関鍛冶町と名付けた。関鍛冶町に居住していた有名な刀工には、福島正則の刀をあつかう藤原輝広などがいた。慶長年間、清須から移住してきて、旧号を用い関鍛冶町とした。

明治四年、吉田町と合併。昭和四十一年丸の内三丁目となる。

第二次大戦後、焼跡と変わりはてた名古屋の中心街に百メートル道路ができた。南北の通りは久屋町と関鍛冶町を含む広大な通りであった。

吉田町

関鍛冶町の南、小市場の北にある杉の町筋と桜の町筋との間の一丁。

『金鱗九十九之塵』は、

清須の何町より、引越来るや不詳。慶長年中此地え引越し、古名を下小牧町と称す。其後慶安五年、今の吉田町と改正す。

と町名の由緒を記している。
清須越の時期もはっきりしない。下小牧町より吉田町へと改称した理由もはっきりしない。

明治四年、関鍛冶町に併合。昭和四十一年、丸の内三丁目となる。

小市場町

吉田町の南、小塚町の北にある、桜の町筋と袋町筋との間の二丁。

慶長十九年(一六一四)清須の北市場から移り、北市場町と称していたが、いつの頃からか、小市場町と改められた。北の字を書き違えて、小の字を使用したからだという。

現在は錦三丁目である。

小塚町

袋町より南へ一丁鶴重町までの間と袋町筋鍛冶屋町より東へ久屋町までをいう。清須越の町で元和四年(一六一八)清須の小塚村の内から、名古屋へ移住し、旧号を用いて小塚町と名付けた。

『金鱗九十九之塵』は

又曰当所の地中に、上古より一つの古塚あり。是を小そで塚と呼。このゆへに町名を古塚町と号すよし。然るに何の頃よりか、古の文字を小の字に書あやまりたるなるべし。

と記し、古塚が小塚となったとしている。

町名には小袖松がある。藤原師長が配流を許され、郡に帰ることになった。愛妾が跡をしたひ、小塚町まで来て、なげきに絶えかねて入水した。小袖をかけた松を小袖松といい、その根元に小袖を埋めて塚としたので、小袖塚とした。

現在は錦三丁目である。

久屋町通

鍛冶屋町通の東の縦町である。片端より綿屋町の西まで。そのうち袋町より南は武士町である。

久屋町

京町通より杉の町通までをいう。清須越なれども引きうつりの年月詳かならず。また何方といふ清須にての名もしれぬ由なり。初めの町名は干物町と言ふ。今も一丁目に干物を商ふ店多し。その後久屋町と改む。その名は幾久しく町内の繁昌を寿て久屋町とは名づけけるとぞ。

『尾張名陽図会』が紹介している久屋町の町名由来だ。久屋町は京町筋から杉の町筋の間の二丁。旧号を干物町という。寛永年間(一六二四?一六四四)藩主義直がこの町を通った時、町名をお尋ねになった。
「干物町です」と答えた所「末々まで、この町は繁昌すべき所だ。これからは久屋町にせよ」とお命じになり、町名は改められた。

町内には、清須越の白木屋伝治郎という尺八の名人がいた。

ある日のこと、伝治郎の門前で虚無僧が尺八を吹いていた。それを聞きつけた伝治郎は「なんという下手な吹き方だ。あの程度なら尻でも吹くことができる」と言った。虚無僧は怒り、「では尻で吹いてみろ」という。伝治郎は、尻をまくり、尺八を逆さまにして、笛の尻より鶴の巣ごもり、六段などを吹いた。虚無僧はほうほうの体で逃げだしていった。

戦後の百メートル道路建設により、町の大半は道路下に埋まってしまった。現在は錦三丁目、丸の内三丁目、泉一・二丁目、東桜一丁目、久屋町一・八丁目となっている。

上田町

久屋町の南、杉の町筋から本重町筋までの三丁をいう。清須越の町で、移転年月日や清須のどこから引越してきたかは不詳。初めは那古野町と呼んでいたが、城下の惣名とまぎらわしいというので、久屋町二丁目と称した。その後上田町と改名する。『金鱗九十九之塵』は上田町の町名由来について、次のように記す。

むかし開発の頃、此地に住める者には工商の類ひ一人もなく、みなみな農夫のみなりしが、其耕業を祝して、隣町なる久屋に日のさやという訓を講て、上田ント云心に、町名も上へ田町と名付けたり。

この上田町の閑所に、一人の身寄りもない老婆が住んでいた。長屋の者たちがかわるがわるに看病をする。老婆に何か食べたいものはないかと尋ねると餅が食べたいという。餅を買ってきて老婆に与えると引きとってくれという。心配で、隣家の男が破穴から覗いていると、餅の中に黄金一枚ずつを入れて、食べ始めた。九つまで、黄金の入った餅を食べて死んでしまった。

志ん生の十八番『黄金餅』の原典ともいうべき話だ。